「漁夫の利」という言葉、いま使うのはだいたい「二者が争っているすきに、関係のない第三者がまるごと得をする」という場面でしょうか。二社が値下げ合戦でつぶし合い、横から別の一社が客をさらっていく——そんなときに顔を出します。

でも語源をたどると、これは紀元前 3 世紀の戦国時代、ひとりの説客が王の前で語った、シギと貝の小さな譬え話なんです。しかもその一話で、ひとつの戦が止まりました。

第1話 · 趙、燕に兵を向ける

舞台は紀元前 3 世紀のはじめ、戦国の世。

北の大国・が、隣国のを攻めようとしていました。本来この二国は、当時いちばん勢いのあった西の超大国・に向き合わねばならない、いわば近しい立場どうし。その趙と燕が、よりによって同士討ちを始めようとしていたのです。

これを止めようと動いたのが、弁舌で諸国を渡り歩く説客・蘇代(そだい)。合従策で知られた縦横家・蘇秦の弟と伝わる人です。燕のために、蘇代は趙の恵文王(けいぶんおう)のもとへ向かいました。

第2話 · 易水の、日なたの貝

王の前に立った蘇代は、いきなり戦の話を切り出しません。代わりに、こんな話から始めます。

「燕からこちらへ参る途中、両国の境を流れる易水(えきすい)を渡ってまいりました。すると川辺で、大きな貝(蚌)が殻を開け、日なたぼっこをしておりまして」

そこへ、一羽のシギ(鷸)が舞い降りた。やわらかそうな貝の身を見つけ、すかさず長いくちばしを差し込みます。

ところが、貝も負けてはいません。とっさに殻をぴしゃりと閉じ、シギのくちばしを、がっちり挟み込んでしまったのです。

第3話 · くちばしと殻、譲らぬまま

くちばしを挟まれたシギと、挟み込んだ貝。動けないまま、にらみ合いが始まります。

しびれを切らしたシギが、まず口を開きました。すると貝も、殻を閉じたまま言い返します。

シギ「今日も雨が降らず、明日も降らなければ、お前は干からびて死ぬ貝になるぞ」
貝「今日もくちばしが抜けず、明日も抜けなければ、お前こそ飢えて死ぬシギになる」

どちらも、一歩も引きません。意地の張り合いのまま、互いをくわえて、川辺で固まってしまったわけです。

——そこへ。

通りかかった一人の漁師が、争うことに夢中な二匹を、ひょいと両手でつまみ上げました。シギも貝も、抵抗するすべもなく、まとめて籠の中へ。争った末に、そろって漁師の獲物になってしまったのです。

第4話 · 漁師は、すぐそこに

ここまで語って、蘇代は趙王に静かに向き直ります。

「いま趙は、燕を攻めようとしておられる。けれど燕と趙が長くにらみ合えば、民は疲れ、国は痩せる。そのとき横から、まるごと利をさらっていくのは——強国・ではありませんか」

シギが趙、貝が燕。そして籠を提げて待つ漁師が、秦。譬えの絵が、そのまま戦国の地図に重なります。

恵文王はしばらく黙って考え、「もっともだ」とうなずいて、燕への出兵をとりやめました。

シギと貝の、たった一度の言い争い。その小さな絵が、ふたつの国の戦をひとつ止め、「漁夫の利」という言葉を、いまに残すことになります。

争っている当人ほど、自分が誰かの獲物になりかけていることに気づけない。「漁夫の利」がいまも胸に刺さるのは、たぶん、そのせいなんです。勝ち負けに夢中なシギと貝の頭の上には、もう、籠を提げた手が伸びていた——わけです。