「完璧」という言葉、もとは「完全」とほぼ同じ意味で使われています。でも語源をたどると、これがただの形容詞じゃなくて——たったひとつの玉(ぎょく)をめぐる、命がけの駆け引きの名前だった、と知る人は意外に少ない。
舞台は紀元前 283 年ごろ、戦国時代の中国・趙。ひとりの男の話です。
第1話 · 趙にやってきた国宝
きっかけは、ひとつの璧(へき)でした。
璧は真ん中に穴の空いたドーナツ型の玉で、当時の中国では「天と通じる礼器」として権威のあるもの。なかでも特別だったのが、卞和という男が三代の王にわたって「これは本物だ」と訴え続け、両足を切り落とされた末に、ようやく本物と認められた——「和氏の璧」と呼ばれる一品。
その玉が、めぐりめぐって趙の恵文王の手に渡った。
国宝として大事にしていたところ、隣の超大国・秦から、こんな書状が届きます。
「うちの十五城と、その璧を交換しないか」
差出人は秦の昭襄王(しょうじょうおう)。
第2話 · 罠の匂いがする交換
恵文王と家臣たちは、頭を抱えました。
秦は、当時いちばん強い国。十五城は破格の好条件です。ただ約束を守らないことでも有名で、璧を渡したとたん、城を一つも寄越さずに終わる可能性が高い。かといって断れば、難癖をつけて攻めてくる。
困った王に、宦官の繆賢(びゅうけん)が一人推薦します。
「うちの食客に、藺相如(りんしょうじょ)という者がいます。あれなら、知恵も度胸もある」
呼ばれた藺相如は、王の前でこう言い切りました。
「秦が城を渡すつもりがあるなら、璧は秦に置いてきます。渡す気がないと見えたなら、璧は完全な形で趙へ持ち帰りましょう」
王は、彼に璧を託します。
第3話 · 咸陽での読み合い
藺相如は璧を持って、秦の都・咸陽へ向かいました。
謁見の場で璧を差し出すと、秦王はそれを上機嫌で側室や臣下に見せて回り——城の話を一切しない。
藺相如は即座に見抜きます。「やはり騙すつもりだ」と。
そこで彼はこう切り出しました。
「大王、その璧、実は小さな瑕(きず)がございます。お見せしましょう」
秦王が璧を返した瞬間、藺相如は数歩あとずさり、柱を背にして璧を高く掲げます。
「大王が城をくださらないのなら、わが頭とこの璧、ともにこの柱で砕けるまで」
血相を変えた秦王は、慌てて地図を取り寄せ、「ここからここまでの十五城」と指さしてみせます。藺相如は引き下がりません。「五日間、斎戒してから儀式の場で正式に」と要求し、秦王も承諾します。
そして藺相如はその五日のあいだに、従者を商人の姿にさせ、璧を懐に隠して密かに趙へ送り返したのです。
第4話 · 完全なる帰国
五日後、儀式の場に現れた藺相如は、丸腰だった。璧は、もう手元にない。
そして、こう述べます。
「秦は強大、趙は弱小。趙が先に璧をお渡ししても、秦は十五城を絶対に渡さない。だから璧は、もう趙に送り返しました。私を煮殺すなり、好きに処刑するなり、ご自由に」
秦王と家臣たちは、顔を見合わせました。
ここで殺せば「秦は使者を煮殺す国」という汚名が残る。怒りで動くか、メンツを取るか——秦王が選んだのは、後者でした。藺相如を手厚くもてなして、無事に趙へ送り返した。
璧は、一切の欠けなく、趙へ戻った。
完全な璧を、完全なまま帰す——それが文字どおりの「完璧」。
藺相如はこのあと上大夫に取り立てられ、ライバルの将軍・廉頗との「刎頸の交わり」へと、物語は続いていきます。