「背水の陣」という言葉、いま使うのはだいたい「もう退路はない、覚悟を決めて挑む」みたいな意味でしょうか。受験、転職、プロジェクトの正念場——日常のいろんな場面で顔を出します。
でも語源をたどると、これは紀元前 204 年、井陘(せいけい)という峠の口で、ひとりの男が編み出した、覚悟「だけ」じゃない戦術の名前なんです。
第1話 · 井陘口、号して二十万
舞台は楚漢戦争のさなか、紀元前 204 年。
漢の劉邦は、項羽と中原で睨み合っている。その背後を守るため、漢の将軍・韓信(かんしん)は、副将の張耳(ちょうじ)とともに、北の趙を平らげる役目を任されていました。
兵はおよそ三万。多くは寄せ集めの新兵で、訓練も士気もまだ高くない。それでも韓信は太行山脈を越え、井陘の細道へ入っていきます。
迎え撃つ趙は、成安君・陳余(ちんよ)が、二十万と号する大軍を井陘口に並べていました。
ここで趙の広武君・李左車(りさしゃ)が、ひとつの策を進言します。
「井陘の道は車二台も並ばない狭い道です。私に三万を貸してください。背後にまわって漢軍の糧道を断ちます。十日もしないうちに、漢軍は飢えますよ」
理にかなった献策でした。が、陳余はこれを退けます。「兵法に、十倍なら囲め、倍なら戦え、とある。こっちは数千の漢軍に二十万だ。正面から討ち取らなきゃ、諸侯に弱気と笑われる」——李左車の策は、退けられました。
第2話 · 川を背にした布陣
策が退けられたと聞いた韓信は、井陘の道を一気に下ります。
そして夜半、騎兵を二千騎選び、漢の赤旗を一本ずつ持たせて命じました。
「山中の小道から、趙の砦の近くまで潜め。趙軍が砦を出たら、飛び込んで趙の旗を全部抜き、この赤旗を立てよ」
それから本隊を二つに分けます。
夜明け前、先発の一万を綿蔓水(めんまんすい)のほとりへ進ませ、川を背に陣を敷かせた。
対岸からこれを見た趙軍は——爆笑したと伝わります。
兵法の常識では「丘を背に、水を前に」が定石。川を背に陣など、退路を自分から塞ぐ愚行にしか見えない。「韓信、兵法を知らぬ」——と。
第3話 · 旗と鼓を、捨てる
朝、韓信みずから旗と鼓を立て、残りの兵を率いて井陘口へ進み出ます。
陳余は待ってましたとばかりに門を開き、漢軍へ突撃しました。
しばらく激しく打ち合うと、韓信はわざと旗と鼓を捨て、川辺の本隊へ退いていきます。
「韓信を捕らえれば終わりだ」と、趙軍は砦をほぼ空にして、漢軍を追って川辺まで押し寄せました。
漢軍は、川を背にしています。後ろは水、前は二十万。逃げ場のない新兵たちが、ようやくここで覚悟を決めた。死にものぐるいで槍を構え、押し戻し、押し戻し——趙軍を、足止めしてしまう。
そのあいだに、山中に伏していた二千騎が、もぬけの殻になった趙の砦へ駆け込みました。趙の旗を片端から引き抜き、立てたのは——赤い旗、二千本。
第4話 · 死地にして、生く
押し合いに疲れた趙軍が、ふと、砦を振り返ったとき。
そこに翻っているのは、自軍の旗ではなく、漢の赤旗の海でした。
「砦は、もう落ちている——」
陳余は止めようとしましたが、もう遅い。二十万の隊列が、一気に崩れる。前からは川辺の漢軍、背後からは砦を奪った二千騎。趙軍は崩れ、泜水(ていすい)のほとりで陳余も斬られた。
捕らえられた李左車を、韓信は縄を解き、上座にすえて礼を尽くしたと伝わります。のちにこの人の献策で、漢は燕までを従えていくことになる。
戦のあと、宴の席で諸将が韓信に問いかけました。
「将軍、兵法には『丘を右背にし、水沢を前左にせよ』とあります。あなたは逆をやって、なお勝った。なぜですか?」
韓信は、笑って答えます。
「兵法に、こうもあるじゃないか——死地に追いつめて、そこではじめて生きる、と。私の兵は寄せ集めの新兵だ。生きる場所を残せば、散って逃げていた。だから、逃げ場のないところに置いた」
退路を断ったから勝った——そう見えるこの戦の本当の勝因は、断たれた退路を裏で支えた、二千騎の赤旗のほうにある。
「背水の陣」は、覚悟の名前であると同時に、その覚悟を生かすためのもう一手の名前でもあるわけです。