「おっくう」という言葉、いま使うのはだいたい「気が進まない」「面倒だ」。「動くのがおっくう」「返事を書くのがおっくう」——日々のちょっとした腰の重さを、ふっと口にする一言です。
でも漢字で書くと、「億劫」。語源をたどると、これは仏教の途方もなく長い時間単位から来ていた、と知るとちょっと驚きます。
第1話 · 「劫」——天人と、巨大な岩
まず、漢字の「劫(こう)」のほうから。
これは仏教でつかわれる、ふつうの感覚では数えきれないほど長い時間の単位です。もとは梵語(サンスクリット)の「カルパ(kalpa)」を漢字に写したもの。
どれくらいの長さか。仏典には、いくつかのたとえで語られています。一説には——
「大岩がある。天人が、百年に一度だけ降りてきて、羽衣でその岩をひと撫でしていく。そうしてついに、岩が磨り減って消えてなくなる——その時間が、一劫である」
これを「磐石劫」と呼びます。岩の大きさは「四十里四方」とも「四千里四方」とも、典籍によって幅があります。いずれにせよ、岩はびくとも動かない。羽衣のひと撫で——それを百年に一度。気の遠くなる、では追いつかない長さです。
別のたとえでは、城に芥子粒をぎっしり詰め、百年に一度だけ取り出していき、それが空になるまでの時間とも言われます(芥子劫)。
第2話 · その「劫」が、一億あつまる
そして、「億劫」。
文字どおりに読めば、劫の一億倍。
磐石劫を一回でも、もう想像が追いつかない長さです。それを、一億回くりかえす。気が遠くなる、というのを通り越して、もはや単位として人間の感覚から外れていく。仏典では、悟りに至るまでの修行の長さや、ある業の報いを受ける時間の重さを示す、強い語感のことばとして使われていました。
「億劫を経て、ようやく仏になる」——成仏の遠さを語るときの、定型表現です。
ただし、ここでの「億」は厳密な 10 の 8 乗というよりも、「無量」「途方もない」を表す比喩寄りに使われることが多い、とする読みもあります。
つまり、もともとの「億劫」は時間の話。「面倒くさい」とは、まだまったく関係がありません。
第3話 · 「気が遠くなる」が、「気が進まない」へ
ところが、日本語のなかでこの語が日常に降りてくると、意味の重心が、ゆっくりと滑り始めます。
「億劫もかかるようなことだ」——もとは時間の長さを表していたはずの言葉が、しだいに、それを思ったときに胸に走る「気が遠くなる」感じのほうを指すようになる。
「気が遠くなる」と「気が進まない」は、感覚としては隣り合わせです。
「やればやれる。だが、考えただけで——億劫」
そう口にしたとき、もはや「億劫」は、時間の話ではなくなっている。「動き出す気力が湧かない」「とりかかるのが、面倒くさい」——そういう感情の語として、すっかり居場所を変えてしまった。
中世末から近世(江戸期)の文献では、「億劫がる」「億劫さ」のように、いまの用法に近い使い方が、はっきり見られるようになります。
第4話 · 「おく・こう」が「おっくう」になる
読みのほうも、いつの間にか変わりました。
仏教の用語としては、本来「おくごう」「おくこう」と読みます。それが日常の語になっていく過程で、口にしやすい音へとなめらかに転がっていく。
「おくこう」→「おっこう」→「おっくう」——典型的な、日本語の音便(おんびん)です。
「億劫」の漢字を見て「おっくう」と読めるのは、こうしたゆっくりした音の摩耗の結果。逆に、「おっくう」の音だけ知っている人にとっては、まさかその二文字が「劫」の一億倍を意味していたとは、ふだん気づきようもありません。
メールの返信、ちょっとした洗い物、玄関を出るまでの一歩——日々、たくさんの「おっくう」を口にします。
そのたび、頭のなかで、ほんの一瞬、巨大な岩を百年に一度だけ撫でていく天人の姿が、うっすらと立ち上がる——とまでは、たぶん思っていない。それでも、千年以上前のたとえの大きさが、いまも音だけ残してそこに座っている、というのは、なんだか可笑しい話ではあります。