「虎の威を借る狐」という言葉、いま使うのはだいたい「強い者の権威を笠に着て、威張る人」。職場や政界で誰かを批評するときに、つい口をついて出る一語です。
でも語源をたどると、これは戦国時代の中国・楚の宮廷で、一人の説客が王に語った、虎と狐の小話だったんです。
第1話 · 楚の王、群臣に問う
舞台は紀元前四世紀ごろの中国・楚。宣王(せんおう)と呼ばれる王が、群臣たちに、ひとつの問いを投げかけました。
「北方諸国が、わが国の宰相・昭奚恤(しょうけいじゅつ)を恐れていると聞く。本当か」
昭奚恤は、楚の令尹(宰相)。軍を統括し、外交を握る、当代きっての切れ者でした。
群臣たちは、答えに困りました。「はい、その通りです」と頷けば宰相を持ち上げすぎになり、「いえ、王ご自身を恐れているのです」とすぐ言うのも、世辞めいて聞こえる。それぞれ角が立つ。場が、しんと静まり返ります。
そのとき、江乙(こういつ)と呼ばれる一人の説客が、口を開きました。江乙は魏から流れてきて楚に仕官した、口の立つ男。彼は、いきなり答えを言わずに、こんな小話を始めます。
第2話 · 虎、狐を捕まえる
「あるところに、虎がいました。百獣を獲って食らう、森の王。ある日、虎は一匹の狐を捕まえました」
「狐は、捕らえられたまま、ふっと顔を上げてこう言いました」
「あなたは私を食べてはなりません。天帝が私を百獣の長になさったのです。いま私を食べれば、天帝の命に逆らうことになる」
虎は、首をかしげる。狐ごときが、百獣の長?
狐は、続けます。
「信じられないなら、私の後ろを歩いてみてください。獣たちが、私を見て、逃げないか——よく、ご覧になればいい」
第3話 · 百獣、いっせいに逃げる
虎は、もっともだと思いました。狐を前に立たせ、その後ろを、悠々と歩きはじめます。
狐は、胸を張り、悠然と歩を運ぶ。虎は、その小さな背中を見ながら、しずかに従う。
森を行くと——出会う獣は、みな、いっせいに逃げ出した。鹿が跳び、猿が枝を渡り、兎が藪に消える。
虎は、目を見開く。
「なんと、本当だ。狐は、百獣の長だったのか」
逃げた獣たちが本当に恐れていたのは、狐の後ろを歩く、自分自身——だとは、虎は気づきませんでした。
江乙は、ここで話を止め、王の方を、まっすぐ見ました。広間には、群臣の息を呑む音だけが、しずかに残ります。
第4話 · 江乙、王に告げる
「いま王の領土は五千里、兵は百万。その指揮を、専ら昭奚恤に委ねておられます。北方諸国が恐れているのは昭奚恤ではない——その背後にいる、王の軍勢、そして王ご自身なのです」
「百獣が虎を恐れて逃げたのを、虎は狐の威だと思った——昭奚恤を恐れているように見えるのも、同じことなのです」
宣王が、これを聞いてどう動いたかは『戦国策』には伝わっていません。ただ、江乙の小話だけが、二千数百年経って、東アジアに「虎の威を借る狐」という言葉として、いまも残り続けています。
権威のある誰かを後ろに従えた人を見たとき。逆に、自分が誰かの「狐」になっていないか、ふと立ち止まったとき。後ろの虎がどこから来ているのか、ちょっと振り返ってみたくなる——のかもしれません。