「アキレス腱」という言葉、いま使うのは二通り。ひとつは、足首の上にある、あの太い腱そのもの。もうひとつは、「唯一の弱点」「泣き所」——どんなに強い相手にもある、たった一箇所の急所のことです。
語源をたどると、これはギリシャ神話の、不死身に近い英雄の、たった一点の弱みの話なんです。
第1話 · 不死身にする、母の願い
ギリシャ神話の英雄アキレウスは、人間の王ペーレウスと、海の女神テティスとの子。神と人とのあいだに生まれた子は、母が女神であっても、父が人間である以上、いつかは死ぬさだめを負っています。それを誰より惜しんだのが、母テティスでした。
我が子を、なんとか不死身にしてやりたい。そう願ったテティスは、ある方法を試みます。生まれたばかりの赤子を、冥府を流れるステュクス川——その水に浸せば、傷つかぬ不死の体になるとされた、聖なる川に、そっと、ひたしたのです。
第2話 · つかんでいた、踵
ところが、ひとつだけ、見落としがありました。
川に浸すとき、テティスは赤子の踵(かかと)を、指でしっかりとつかんでいた。その指の触れていた踵だけは、とうとう水に濡れなかったのです。
体じゅうが不死身になったのに、踵のひとところだけ、傷つくこともある、ただの人間のまま残った。我が子を守ろうとして川に浸した、母のその手こそが、唯一の隙を作ってしまった——なんとも皮肉な話です。
第3話 · トロイアの戦場で
やがてアキレウスは、ギリシャ最強の戦士に育ちます。
時は、かのトロイア戦争。トロイアの王子パリスがスパルタの王妃ヘレネを連れ去ったことから、ギリシャ連合軍が海を渡り、トロイアの城を十年にわたって攻めた、あの大戦争です。アキレウスはギリシャ軍の旗頭でした。彼が戦えば敵将は次々に倒れ、彼がへそを曲げて戦列を退くと、味方が総崩れになるほど。終盤には、トロイア最強の英雄ヘクトルすら討ち取ります。ホメロスの叙事詩『イリアス』も、その「怒り」をこう歌い出しました。
怒りを歌え、女神よ。ペーレウスの子、アキレウスの——
だれひとり、正面から彼に勝てる者はいない。まさに無双の英雄でした。
第4話 · たった一射、そして名前に
ところが、戦いの終盤。トロイアの王子パリスの放った矢が——一説には、太陽神アポロンに導かれて——アキレウスの、あの踵を、まっすぐに射抜きました。
不死身の英雄は、たった一箇所の弱点を貫かれ、あっけなく倒れた。(この踵の最期は、じつは『イリアス』本編には描かれず、後代の伝承で語り継がれたものです。)
そして時代がぐっと下って、17 世紀末のヨーロッパ。フランドルの解剖学者フェルヘイエンが、踵から脹脛(ふくらはぎ)へ伸びる太い腱に、この英雄の名を書きつけました。「アキレスの腱」。それが定着して、いまの「アキレス腱」になります。神話の英雄の名が、二千年以上を越えて、私たちの体の一部の名として生き続けている——なんとも珍しい例です。そして同時に、「無敵に見える者の、ただ一つの急所」という比喩も、ここから広まりました。
どんなに強くても、どこかに一点、自分では守りきれない場所がある。あなたの「アキレス腱」は、どこにあるでしょうか——それを知っていることが、たぶん、いちばんの強さなんです。