「傍若無人」。車内で大声を出しつづける人、部下に横柄な上司。人の迷惑を気にしない振る舞いを、少し腹を立てながら指す言葉です。

でも語源をたどると、そこにいるのは迷惑な人ではありません。市場の真ん中で酔って歌い、そのまま泣き出した男が二人。出どころは『史記』の刺客列伝です。

第1話 · 燕の市に、流れ着いた男

紀元前 3 世紀の後半。秦がひとり抜け出し、残りの六国を呑み込む一歩手前。戦国の終わりごろです。

北の国・燕(えん)の都の市(いち)に、荊軻(けいか)という男がいました。衛(えい)の生まれで、先祖は斉の人。衛では慶卿、燕では荊卿。当てる漢字は変わっても、読みはどちらも「けいけい」。土地が変われば書かれ方も変わる、そういう身の上です。剣を使い、諸国を渡り歩いて、ここまで流れてきました。

その燕で荊軻が気に入ったのが、二人。犬の肉を売る男——名は伝わらず、『史記』が狗屠(くと)、犬をさばく者、とだけ記す男。そして筑(ちく)の名手、高漸離(こうぜんり)

筑というのは、箏(そう)に似た形の楽器です。ただし指ではじくのではなく、竹の棒で弦を打って鳴らす。弦は五本とも十三本とも伝わります。

第2話 · 酒がまわると、筑が鳴る

荊軻は大の酒好きでした。日ごと、狗屠と高漸離を誘って、燕の市で飲む。市といえば、都でいちばん人の行き来が多い場所です。

酒がまわると、高漸離が筑を打ちはじめます。荊軻がそれに声を合わせて歌う。市場の真ん中で、です。楽しくなって、その楽しさのまま、二人して泣き出す。

相(あい)楽しむなり、已(すで)にして相泣き、傍らに人無きが若(ごと)き者なり——相樂也、已而相泣、旁若無人者(『史記』刺客列伝)

これが「傍若無人」の出どころ。買い物客も、店の者も、まわりは人だらけです。それが目に入っていない。というより、二人のほうが遠くへ行ってしまっている。

なぜ泣いたのかは、司馬遷も書いていません。

第3話 · 剣を論じて、睨まれた

ややこしいのは、この荊軻という人が、まるで人に絡むタイプではなかったことです。

燕に流れ着く前の話ですが、榆次(ゆじ)という町で、剣客の蓋聶(がいじょう)と剣を論じたことがありました。話が噛み合わず睨みつけられると、荊軻はそのまま宿へ戻り、車を出して町を去りました。呼び戻しの使いが着いたときには、もういない。

趙の都・邯鄲(かんたん)でも、魯句践(ろこうせん)と博打(ばくち)の手をめぐって言い争いになり、怒鳴られると黙って逃げています。

荊軻は酒人に游(あそ)ぶと雖(いえど)も、然れども其の人と為り沈深にして書を好む——荊軻雖游於酒人乎、然其為人沈深好書(『史記』刺客列伝)

酒飲みと付き合ってはいるが、人となりは物静かで、書を好む。燕で仕官せずにいた田光(でんこう)も、この人はただ者ではないと見抜いて厚く遇しました。

第4話 · 言葉だけが、先に旅をした

言葉のほうは、荊軻を置いて歩き出します。

唐の時代に編まれた『晋書』には、謝尚(しゃしょう)という人の伝があります。王導(おうどう)のもとへ初めて挨拶に出向いた席で、請われるままに鴝鵒(くよく)舞——ムクドリの仲間、ハッカチョウの舞を演じてみせた。その姿を、伝は「傍若無人」と評しています。こちらは褒め言葉です。飾らない人だ、という調子で、非難の色はまだ薄い。

傲慢のほうへ重心が移るのは、ずっと後のこと。台湾の教育部が編む『重編国語辞典修訂本』は、いまも「意態自然(気負いのないさま)」と「高傲(おごり高ぶるさま)」の両方を語義に並べています。

日本に届いた記録も古い。平安の日記『中右記(ちゅうゆうき)』保安元年(1120 年)。上皇が何ごとも相談するという人物について、書き手はこう記しました——「天下の権威、傍若無人なり」。はばかるものがない、という使い方です。責める調子は、まだ聞こえません。

ついでに言うと、原文の字は「旁若無人」。日本で定着した「傍」とは違いますが、旁と傍は通用するので間違いではありません。

話を燕の市に戻します。荊軻はあの数年後、燕を発って秦へ向かい、帰りませんでした。高漸離も、のちに筑を手にしたまま同じ道を行きます。

燕の市で泣いていた二人は、まわりが見えていなかったのではなくて、たぶんお互いしか見えていなかった。