「刎頸の交わり」という言葉、いま使うのはだいたい「無二の親友」の意。新聞や文芸の文章で、二人の人物の長い友情を語るときに、ちょっとあらたまった筆致で出てくる一語です。
でも語源をたどると、これは戦国末の趙で、いがみ合っていた二人が、文字どおり「首をはねられても悔いない」と言い合える間柄に変わった——その一回きりの和解の名前だったんです。
第1話 · 上卿になった、藺相如
舞台は紀元前 279 年ごろ、戦国時代の中国・趙。
ここに至るまで、藺相如はすでに二度、大きな仕事をしていました。
一度目が、四年前の「完璧」の一件。秦の昭襄王から「国宝の和氏の璧と十五城を交換しよう」と持ちかけられた趙王の使者として咸陽に乗り込み、璧を傷ひとつなく持ち帰った話です。
二度目が、この年の澠池(めんち)の会。秦王と趙の恵文王が国境近くで会見し、酒の席で秦王が「趙王、瑟(しつ)を弾いてくれ」と命じた——あからさまな侮りでした。藺相如は秦王の前に進み出て「では大王、缶(ふ)を打ってください」と詰め寄り、五歩の間合いから「お聞き入れなければ、いまここで、私の首から血をお浴びせします」と凄んだ。趙王の威信は、その場でかろうじて守られた。
恵文王はこの功を讃え、藺相如を上卿(じょうけい)に取り立てます。趙の最高位の文官——名将・廉頗(れんぱ)よりも上の席次でした。
第2話 · 廉頗の、抑えがたい怒り
これが、廉頗には我慢ならなかった。
廉頗は長年、趙の軍を率いて、城を抜き、戦野で敵を破り、流した汗と血で位を上げてきた老将です。一方の藺相如は、いわば舌先三寸——口先の働きで、自分の上に据えられた。
廉頗は周囲に言ってまわりました。
「俺は攻城野戦の大功を重ねてきた。あの男はただの口舌で、俺の上に位を得た。会ったら必ず、辱めてやる」
藺相如はそれを伝え聞きます。
それ以来、彼は廉頗を徹底して避けるようになった。朝廷に出れば席が並ぶのを嫌い、しばしば病と称して欠席する。外で廉頗の車に出くわしそうになれば、自分の車を脇道に避けて、やり過ごす。
つき従う家臣たちには、それが情けなく映りました。
第3話 · 二虎、闘えば
ある日、ついに家臣たちが藺相如に詰め寄ります。
「私たちが故郷を離れてあなたにお仕えしているのは、あなたの高義を慕えばこそです。それなのに、廉将軍が一言悪口を言ったぐらいで、おびえて隠れて回るとは——もう、お仕えしておれません。お暇を」
藺相如は、家臣たちを引きとめてから、静かに問い返しました。
「君たちは、廉将軍と、秦王と、どちらが恐ろしいと思う」
「もちろん、秦王のほうです」
「私は、その秦王を、その朝廷の真ん中で叱責した男だ。廉将軍ひとりを恐れようか。ただ、強い秦がいま趙へ兵を向けないのは、文に私、武に廉将軍がいるからだ。二頭の虎が共に闘えば、ともに倒れる。私が彼を避けるのは、国家の急を先に、私の怨みを後にしているからにすぎない」
家臣たちは、ことばを失った。
第4話 · 肉袒、荊を負って
この藺相如の言葉は、まわりまわって廉頗の耳にも入ります。
聞いた廉頗は、しばらく動かなかった。やがて、上半身の衣を脱ぎ捨て——肉袒(にくたん)——背中に荊(いばら)の枝を負って、藺相如の屋敷の門前に立ったのです。
「鄙賤の人(いやしき身)が、将軍の寛大な心を、ここまで知らなかった」
肉袒は、罪人として処罰を受ける覚悟の姿。負った荊は、笞(むち)の代わり。「どうか、これで打ってください」という、武人の流儀の謝罪でした。
藺相如はその場で廉頗を迎え入れ、二人は手を取って詫び合い、笑い合った。それからというもの、二人は刎頸(ふんけい)の交わり——首をはねられても悔いはない、と言える間柄——となった。
『史記』は、この一連を「廉頗藺相如列伝」の白眉として書き留めています。文の臣と武の臣、いがみ合っていた二人が、ともに国家のためにと立ち止まり、深く頭を下げ合った。その間柄を呼ぶための、ひとつの名前。
二千三百年経って、「刎頸の交わり」という言葉だけが、いまも辞書のなかに残っている。ふと、本当にそう呼べる相手がいるか——と問われたとき、口ごもってしまうのは、たぶん私たちのほうかもしれません。