「文化」という言葉、いま使うのは文化祭、文化住宅、文化的な暮らし、あるいは「日本文化」。芸術や教養、その土地その民族の生き方まで、ずいぶん広く穏やかに使う一語です。

でも漢字を分けると、「文」と「化」。「文(ぶん)を以(もっ)て化(か)す」と読めます。文で、人を化(か)える。芸術でも暮らしでもなく、もとの「文化」が指したのは——武力の反対側にある、統治の技術でした。しかもそこには、少しだけ物騒な理屈がひそんでいます。

第1話 · 文で、化す

さかのぼると、二字を支える発想は『易経』にあります。賁(ひ)の卦(け)に付された注釈・彖伝(たんでん)は、「天文を観て時の変を察し、人文を観て天下を化成(かせい)す」と言う。空の模様(天文)で季節を読むように、人の世の模様——礼儀や秩序、文(あや)——を観て、天下を教え導き、かたちづくる。この「人文化成」から「文」と「化」を抜き出したのが「文化」だと説かれます。

「文」は、武力ではないほうの力。学問、道徳、礼楽、ことばの文(あや)です。「化」は、化(か)す——『説文解字』が「化とは教え行なうなり」と言うとおり、人を教えて中身から変えること。合わせて「文化」は、文治教化。刀ではなく、文によって人を治め、導く。それが、もとの意味でした。

第2話 · 武の、前に

二字が熟語「文化」として早く姿を見せるのは、前漢の劉向(りゅうきょう)『説苑(ぜいえん)』指武篇です。聖人が天下を治めるには、まず文徳、その次に武力。そう説いたうえで、こう続けます。

凡(およ)そ武の興(おこ)るは、不服の為(ため)なり。文化改(あらた)まらず、然(しか)る後(のち)に誅(ちゅう)を加(くわ)ふ——劉向『説苑』指武篇

武を起こすのは、従わない者がいるから。文による教化——文化で、それでも相手が改まらない。そのとき初めて、誅(罰し、討つこと)を加える、と。

ここでの「文化」は、統治のプログラムの前半分です。まず教え導く。だめなら、刀。武の対(つい)でありながら、同じ一本の道の上にある。いま文化祭と呼ぶ二文字の初めのほうの顔は、「討つ前に、まず教えてやる」という、為政者の手つきだったのです。

第3話 · 武功と、並べて

この「文化=武の相方」という使い方は、その後も長く続きます。西晋の束皙(そくせき)『補亡詩』には、こんな対句が出てきます。

文化 内(うち)に輯(あつ)まり、武功 外(そと)に悠(とお)し——束皙『補亡詩』

文化は内にゆきわたって人々をまとめ、武功は外へ遠く及ぶ。内は文、外は武。文化と武功が、きれいに左右で対になっています。

『易経』から『説苑』、詩の対句まで、二千年ちかく、「文化」はおおむね「文による統治・教化」を指し、相手はいつも「武」でした。芸術や生活様式という、いまの意味は、まだどこにもありません。

第4話 · カルチャーが、来た

風向きが変わるのは、明治です。西洋から culture、ドイツ語の Kultur が入ってくる。さかのぼればラテン語の cultura、動詞 colere「耕す」にゆきつく言葉で、土を耕すことが、やがて「心を耕す=教養」の意味に育ちました。片や文と武、片や耕作。出どころはまるで違うのに、どちらも「人を耕し、育てる」ところへ着地していた。

この culture / Kultur の訳語に、明治の人たちは古い漢語「文化」を選びます。誰が最初に、いつ——は、はっきりしません。ただ、選ばれた瞬間から「武の対」だった気配は薄れ、二文字は「その民族が積み上げた学問・芸術・暮らしの総体」を背負いはじめました。

そして大正、言葉は一気に日常へ降ります。文化生活という掛け声が流行り、和洋折衷のしゃれた家は文化住宅と呼ばれた。1922年の平和記念東京博覧会は「文化村」に十四棟のモデル住宅を並べ、赤い瓦屋根の小住宅に見物人が押し寄せます。以後「文化◯◯」は、新しくて便利でハイカラなもの、の枕詞に。文化鍋、文化包丁——統治の語が、暮らしの形容詞になりました。

いま「文化」と呼ぶものの奥には、刀を抜く前に「まず文で」と構えた、古い為政者の手つきが残っています。文で人を変えるか、武でねじ伏せるか。その分かれ道の、やわらかいほうに付いていた名前が、めぐりめぐって、私たちの祭りや暮らしの名前になりました。二文字はいまも、「人を、文で、育てていく」という芯だけは、手放していないようです。