「社会」という言葉、いま使うのはもう、空気のように当たり前。「社会に出る」「社会人」「社会問題」「社会保障」——毎日どこかで耳にする一語です。

でも、この二文字が日本語にしっかり根を下ろしたのは、たかだか百五十年ほど前。明治の翻訳者たちが、ずいぶん迷ったすえに選び取った言葉なんです。しかも、もとは「村の祭りの集まり」を指す、ずっと小さな言葉でした。

第1話 · もとは「村の祭りの集まり」

「社会」は新しそうに見えて、実は古い漢語です。

」は、土地の神(やしろ)をまつる場所、あるいは土地の神そのもの。「会」は、人の集まり。中国では、春と秋の「社日(しゃじつ)」になると、村人たちが社のもとに集まり、供え物をして、酒や肉を分けあい、旧交を温める習わしがありました。その集まり・行事のことを、「社会」と呼んだのです。

宋代に編まれた朱子学の入門書『近思録』には、こうあります。

郷民 社会を為(な)す

村人たちが「社会」をひらく——つまり、土地神の祭りに寄り集まる、という意味。北宋の学者・程頤(ていい)らの言葉にも、同じ言い回しが見えます。本来の「社会」は、いまの「社会」よりずっと小さな、村の寄り合いだったわけです。

第2話 · society という難題

時代は飛んで、幕末から明治へ。

西洋から、society という語が流れ込んできます。人と人が結びついてつくる、大きなまとまり。個人を超えた、人間の集合体。ところが、これにぴたりと当てはまる日本語が、当時はなかった。

「世間」では狭いし、「世の中」でもどこか足りない。福沢諭吉は『西洋事情 外編』(慶応3年・1867)で、society を「人間交際」「交際」と訳しました。ほかにも「仲間」「組」「連中」「社中」「世態」「会社」——明治の知識人は、めいめい思い思いの訳語を当ててみる。society の訳は、しばらくのあいだ、定まりませんでした。

第3話 · 明六雑誌から、新聞へ

訳語としての「社会」が表に出てくるのは、明治のはじめです。

まず明治7年(1874 年)、啓蒙学者の西周(にしあまね)が、同人誌『明六雑誌』第二号で「社会」の語を使います。翌明治8年(1875 年)1月14日には、新聞記者の福地源一郎(ふくちげんいちろう、号は桜痴)が、『東京日日新聞』の紙面で「社会」に「ソサイチー」とルビをふった。学者の同人誌から、大衆の読む新聞へ——ほとんど死語になっていた古い漢語が、society の訳語として、少しずつ世に送り出されていきます。

なぜ、この古語だったのか。「社」も「会」も、もともと「人が集まる」という芯を持っている。そこに、society の「人の集まり」という核を重ねられる——明治の人たちは、そう見込んだのでしょう。

第4話 · 「会社」と分かれて、定着へ

最初のうち、「社会」は「会社」と意味が重なる、狭い使われ方でした。どちらも「人が集まったもの」。区別はあいまいだったのです。

それがやがて、「会社」は company(営利の集まり)、「社会」は society(人間全体のまとまり)へと、役割を分けていきます。ヘボンの和英辞書『和英語林集成』も、改正増補版(1886)になって、ようやく「社会」を見出し語に立てました。明治10年代、「社会」はついに、いまのような広い意味で定着します。

村の社の祭りに集まった、小さな人の輪。それが、世界そのものを指す一語に育つまで——「社会」の二文字には、ぴたりの訳語を探してさまよった、明治の人たちのたくさんの迷いが、静かに畳み込まれています。

いま「社会に出る」と言うとき、その奥のいちばん遠いところに、土地の神のもとへ集まる、古い村人たちの姿が、かすかに残っている——のかもしれません。