「竹馬の友」。幼いころから一緒に遊んだ、昔なじみの友だちのことです。
ところが、この竹馬は、足をのせて歩く二本の竹ではありません。そして、この言葉のもとになった一言は、友情の話でもありませんでした。
第1話 · 一本の竹の馬
中国の竹馬は、一本の竹竿にまたがって走る遊びです。竿の先に馬の頭をつけることもある、いわば「お馬さんごっこ」。
『後漢書』には、ある地方長官を出迎えるため、数百人の子どもがそれぞれ竹馬にまたがって道ばたで拝んだ、という場面があります。唐の李白も、少年が竹馬に乗ってやって来て、青い梅の実で遊ぶ幼い日々を詠みました。
日本でも、古い竹馬はまたがるほうでした。平安末期の西行には「竹馬を杖にも今はたのむかな」という歌があります。杖にできるのは、一本の竹だからです。足をのせる二本の竹を竹馬と呼ぶようになったのは、江戸時代も後期のことだとされます。
一本の竹なら、放り出すことも、拾うこともできる。この話は、そこから始まります。
第2話 · 我は、我と
四世紀の中国、東晋。桓温(かんおん)と殷浩(いんこう)は、若いころから並び称された二人でした。そして、いつも張り合っていた。
あるとき桓温が「お前は、俺と比べてどうだ」と尋ねると、殷浩はこう返しています。
我、我と周旋すること久し。寧(むし)ろ我と作(な)らん(『世説新語』品藻篇)
わたしは、わたし自身と長く付き合ってきた。あなたになるより、わたしでいたい。
やがて朝廷は、力をつけすぎた桓温への対抗役として殷浩を重く用います。ところが殷浩は北への遠征に大敗しました。すかさず朝廷にその罪を訴えたのが、ほかならぬ桓温でした。354 年、殷浩は官位をすべて奪われて庶民に落とされ、遠い地へ移されました。
第3話 · 捨てた竹馬を、拾っていた
そのあとで、桓温は周りの人々にこう語りました。
少(わか)き時、淵源(殷浩)と共に竹馬に騎(の)る。我棄て去れば、己(かれ)すなわちこれを取る。故に当(まさ)に我が下に出づべし(『世説新語』品藻篇)
子どものころ、あいつとは一緒に竹馬に乗った。俺が放り出すと、あいつはいつもそれを拾っていた。だから、俺の下にいて当然なのだ。
殷浩本人に向けた言葉ですらありません。自分が追い落とした相手について、周りに聞かせた一言です。しかも『世説新語』はこれを、人物の格付けを集めた「品藻」の篇に収めました。竹馬の思い出は、どちらが上かを決める材料として記録されたわけです。
もっとも『晋書』では、桓温は同じころ別の相手に、殷浩は徳もあり言葉も立つ、朝廷が使いどころを誤っただけだ、とも語っています。見下しながら、力は認めていた。張り合う相手とは、たいていそういうものかもしれません。
第4話 · 呼び戻しの手紙
庶民に落ちた殷浩は、一日じゅう宙に指で字を書いていたといいます。そっとのぞくと、書いていたのは「咄咄怪事(とつとつかいじ)」——ああ、なんとおかしなことだ、の四字だけでした。
『晋書』によれば、のちに桓温は、殷浩を高い官職に呼び戻そうと手紙を送ります。殷浩は喜んで引き受けた。ところが返事に誤りがないかと気にして、封を何十回も開け閉めしているうちに、中身の入っていない封書を送ってしまいます。桓温はひどく気を悪くし、二人の縁はそこで切れました。
同じ『世説新語』には、桓温より前の時代の竹馬の思い出が、もう一つあります。呉が滅んだあと、晋の武帝が幼なじみの諸葛靚(しょかつせい)に、竹馬のころの仲(竹馬の好〈よしみ〉)を覚えているか、と声をかけた。父を武帝の父に討たれていた諸葛靚は、仇も討てずに今日またお顔を拝している、と答えて涙を流しました。こちらの竹馬も、甘い思い出ではありません。
「竹馬之友」の四字は、桓温の話にも武帝の話にも出てきません。唐の終わりごろには、亡き友をしのぶ文に「竹馬之友」が現れ、日本でも江戸の中ごろには「竹馬の友」が使われていました。1940 年には太宰治が『走れメロス』に「メロスには竹馬の友があった」と書いています。
いま「竹馬の友」と聞いて思い浮かべるのは、肩を並べて竹馬に乗る二人です。けれど、桓温の一言にある竹馬は一本の竹で、捨てた側と拾った側がいました。