「水魚の交わり」という言葉、いま使うのは「ふたりの仲がきわめて深いこと」のたとえ。新聞の人物記事や、長年連れ添った経営者と片腕の関係を語るときに、ちょっとあらたまった筆致で出てきます。
でも語源をたどると、これは三顧の礼で諸葛亮を迎えた劉備が、義兄弟の関羽・張飛に対して「魚に水がいるように、俺には孔明がいる」と諭した、その一言だったんです。
第1話 · 三顧のあと、孔明を得て
舞台は建安十二年(207 年)のあと、後漢末の中国・荊州。
四十七歳の劉備は、三たびの草廬訪問の末に、若き諸葛亮——字(あざな)は孔明、年齢、まだ二十七——を、ようやく軍師に迎え入れたばかりでした。
授かったのは、北は曹操、東は孫権、その間の荊州と益州で天下を分ける「天下三分の計」——のちに隆中対と呼ばれる、若き軍師の戦略構想です。
劉備は、これを聞いてからというもの、すっかり孔明の人と謀(はかりごと)に惚れこみました。朝な夕なに孔明を呼び、地図を広げ、天下の動きと、これから採るべき手を、日夜語り合うようになります。
「先生」と呼んで、いちいち腰を低くする。食事も寝起きも、可能なかぎり共にする。荊州の客将に過ぎなかった劉備の陣営に、それまでにはなかった、静かな熱気が生まれていました。
第2話 · 関羽・張飛、不満を漏らす
ところが、これを快く思わなかった人たちがいます。
劉備の義兄弟、関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)。
二人とも、若いころから劉備と寝食を共にし、戦場では先頭を駆け、敗走の夜には背中合わせで眠ってきた、生死をともにする仲間です。武勇では当代きっての豪傑。
そんな二人の目から見て、孔明はまだ二十七歳の書生に過ぎなかった。戦の経験も、人を率いた実績もない。それなのに、兄上はあの若者を「先生」と呼び、まるで自分たちより上に置くかのように扱う。
ある日、ついに二人がそろって劉備に直訴します。
「兄上、ご機嫌のほどはわかります。ですが、いくら何でも、あの書生に対して、いささか親しすぎるのではありませんか。我ら二人、たまったものではありません」
第3話 · 「魚に水あるがごとし」
劉備は、しばし黙って、二人を見つめた。
それから、ゆっくりと、こう言ったと正史『三国志』蜀書 諸葛亮伝は伝えます。
「孤に孔明あるは、なお魚に水あるがごとし。願わくは諸君、復た言うこと勿かれ」
「孤(自分)に孔明がいるというのは、魚に水があるようなものだ。だからどうか、二度とこのことは口にしないでくれ」——という意味です。
魚は、水がなければ生きていけない。それと同じくらい、いまの俺には、孔明がいてもらわなければならない——皇族の末裔と称しながら、四十七歳まで地盤一つ持てなかった劉備が、苦渋の歳月を経て、ようやく出会えた戦略の頭脳。その重さを、二人の義兄弟に、噛んで含めるように告げたのです。
関羽と張飛は、それきり、黙った。
そして、二度と孔明への不満を口にすることはなかった。
第4話 · 「水魚」と呼ばれる間柄
それからの劉備と孔明の道のりは、よく知られているとおりです。
翌年の赤壁の戦い(208 年)で、孫権との同盟をまとめあげて曹操の南下を退けた。荊州の南四郡を確保し、そこから蜀の地・益州へ入り、漢中を手に入れて、219 年には漢中王、221 年には皇帝の位に就く。三顧の礼から、わずか十四年でした。
しかし、翌 222 年の夷陵の戦いで大敗した劉備は、白帝城(永安宮)に退いて病に倒れ、翌 223 年、そこで没します。
死の床で、劉備は孔明を枕元に呼び、後事を託しました。それから十年あまり、孔明は遺された幼帝・劉禅(りゅうぜん)のために南征と北伐を重ね、最後は五丈原の陣中で病没します(234 年)。
魚と水のたとえのとおり、二人は最後まで、離れずに歩んだ。
「水魚の交わり」という言葉は、この一連を踏まえて、後世の人たちが切っても切れない深い間柄の代名詞として使うようになった呼び名です。
千八百年経って、いまでもこの一語が辞書に残っているのは、たぶん——本気で人と組むということが、こんなにも難しいからかもしれません。