「朝令暮改(ちょうれいぼかい)」という言葉、いま使うのはたいてい会議室でしょうか。上の言うことがころころ変わる——そんなときの、ため息まじりの四文字です。

でも語源をたどると、この四字が最初に置かれた場所に、上司はいません。立っているのは、畑で干からびそうな農民たち。しかもこの一句、いまも読みが割れているんです。

第1話 · 上奏文を置いた男

前漢の五代目、文帝の治世。紀元前168年ごろの長安。一通の上奏文が皇帝の前に置かれます。書いたのは晁錯(ちょうそ)。申不害(しんふがい)・商鞅(しょうおう)の刑名——法と実務の学を修めた官人でした。

史書の評は「峭直刻深(しょうちょくこくしん)」——鋭く、まっすぐで、容赦がない。皇太子(のちの景帝)の知恵袋と呼ばれた男です。

第2話 · 農民の一年

後世「論貴粟疏(ろんきぞくのそ)」と呼ばれるこの一通で、晁錯が皇帝に読ませたのは、思想でも兵法でもなく、農民の一年でした。

春に耕し、夏に草を取り、秋に穫(と)り入れ、冬に納める。合間に薪を伐り、役所の用を務め、労役に出る。四季のあいだ、休む日が一日もない。そのうえ水害と干害。そして、税。

賦斂(ふれん)時ならず、朝に令して暮に改む

取り立てに決まった時期はなく、朝に出た令が暮れにはもう変わっている。蓄えのある者は半値で叩き売り、ない者は倍の利息で借りる。そして——田宅を売り、子孫を鬻(ひさ)ぎて以て責を償う——田畑と家を売り、子や孫を売って借金を返す者が出る、と。

「朝令暮改」の四文字は、ここから来ています。会議室ではなく、この行から。

第3話 · 一字を、疑った人がいる

この一句、本文そのものが揺れています。後漢の末に荀悦(じゅんえつ)が『漢書』を編年体へ組み直した『漢紀』は、同じ場所を「急政暴賦、朝令暮得」とします。「改」ではなく「得」。朝に令が出て、暮れにはもう取り立てが済んでいる。

清の考証学者・王念孫(おうねんそん)は『讀書雜志』で「改は、本(もと)と『得』に作る」と断じ、念を押します。

其(そ)の朝に令して暮に改むるを謂うに非ざるなり

令が変わるのではない、取り立てが速すぎるのだ、と。

読みは、もう一つあります。名古屋・真福寺に伝わる奈良朝写しの『漢書』食貨志(国宝)には、そもそも「改」の字がない——「朝令而暮當具」。朝に令が出て、暮れには納めさせられる。加藤繁の訳注は、この写本を正しいとします。

もっとも、決着はついていません。司馬光の『資治通鑑』も、現代の校訂本(中華書局點校本)の『漢書』も、「朝令而暮改」を採ります。改か、得か、それとも最初から無かったのか。四字が生まれたその場所で、四字が揺れている。

第4話 · 訴えは、届いた

でも、この上奏には続きがあります。

文帝は、晁錯の言を容れました。粟を辺境に納めた者に爵位を与える入粟拝爵(にゅうぞくはいしゃく)の制が敷かれます。晁錯はさらに筆を重ねます——辺境の蓄えが足りたなら、農民の租は取るな、と。紀元前168年、田租は半分に。翌年、全廃。農民の悲鳴を書き写した上奏は、たしかに届いたのです。

届かなかったのは、書いた本人でした。

文帝が世を去り、景帝の代。晁錯は諸侯の領地を削る削藩策(さくはんさく)を推します。潁川(えいせん)から父が駆けつけ、諫めた。「劉氏は安し、而(しか)して晁氏は危うし」——そう言い残し、父は毒を仰ぎます。十数日後、呉楚七国の乱。旗印は「錯を誅す」。

景帝は、かねて晁錯と対立していた袁盎(えんおう)の献策を容れます。当の晁錯は、何も知らされていない。史書いわく「錯 殊(こと)に知らず」。騙されて車に乗せられ、市中を引かれ、朝廷に出るための朝衣のまま東市で腰斬。一族は、皆殺し。

それでも、乱は止まりません。前線から帰った鄧公(とうこう)は景帝に言います。呉の謀反は数十年来のこと、錯を誅すなど口実にすぎない、と。

朝に令して、暮に改める。自分で書きつけた一句に、晁錯は斬られたようなものでした。

もっとも——その一句がもともと何だったのか。それすら、まだ決まっていません。二千年、揺れたままの四文字です。