「泣いて馬謖を斬る」という言葉、いま使うのはだいたい「大義のために、私情を抑えて愛する部下を処分する」。組織の重い決断を語るときに、新聞の見出しでも、ドラマの台詞でも、ときどき顔を出す一語です。
でも語源をたどると、これは三国の蜀漢、丞相・諸葛亮(しょかつりょう)が、二十年来かわいがってきた若き参謀を、街亭の敗戦のあとに、自ら涕(なみだ)を流しながら軍法で斬った話だったんです。
第1話 · 街亭、若き参謀に託される
舞台は、蜀漢の建興六年(228 年)春、長安と漢中のあいだに広がる隴右(ろうゆう)の地。
二年前に劉備を見送った諸葛亮は、四十八歳。前年の『出師表』で劉禅に出陣を奏上し、ついに北伐——魏を討って漢室を復興する戦いの一歩目を、踏み出していました。
蜀軍が祁山(きざん)に向かうと、天水・南安・安定の三郡が魏に背いて呼応。あっという間に、隴右の半分が手に入ろうとしていた。
魏も慌てます。曹叡(そうえい)は名将・張郃(ちょうこう)に五万の援軍を率いさせて、隴右への入り口——街亭(がいてい)に向かわせた。
街亭を抑えれば、隴右は蜀のもの。抑えられれば、蜀の北伐は息の根を止められる。誰を、街亭の先鋒に立てるか——軍中の老将たちは魏延(ぎえん)や呉懿(ごい)の名を口にしました。
ところが諸葛亮が選んだのは、数えで三十九歳の参軍、馬謖(ばしょく)。襄陽の名族・馬良の弟で、若い頃から「兵法を談じれば独歩」と評され、諸葛亮自身が、南征で「心を攻めよ」と進言したのもこの男だ、と評していた、最も目をかけた弟子格でした。
第2話 · 山に登る、王平の諫め
馬謖は、副将に王平(おうへい)を従え、街亭に進みます。
出発の前、諸葛亮は念を押しました——「道を扼(やく、押さえる)し、水場のそばに陣を敷け」。街亭の地形は、平地と山道が交わる隘路(あいろ)。道のそばで水を確保しつつ、張郃の進路をふさげば、要塞の役を果たす。
ところが、現地に着いた馬謖は、平地の道を捨てて、近くの山に登ろうとします。理屈はこうでした——山上に布陣すれば、敵は登れない。下を見おろして一気に突き落とせば、決着がつく、と。
王平は、青ざめて諫めました。丞相のご指示は道を扼すことです、山上では水が取れず、囲まれれば干上がります——と。しかし馬謖は譲らない。兵法書を引いて、「高きに居て下を制す」のが要諦だと押し切った。やむなく王平は、自軍千人を割いて、山下の道沿いに別陣を敷きます。
蜀軍の本隊は、街亭の山上にのぼった。
第3話 · 張郃、街亭に着く
張郃は、軍を進めて街亭に到着し、山上の蜀軍を見上げてすぐに策を決めました。
攻め上るのではない。山の麓を囲み、水場を絶つ。
数日のうちに、山上の蜀軍は水に渇きはじめます。陣中に動揺が走り、隊列が崩れたところを、張郃が満を持して攻め上がった。
蜀軍は、瓦解した。
ただ一つ、山下で別陣を張っていた王平の千人だけが、太鼓を鳴らして陣を崩さなかった。
『三国志』王平伝は、王平の千人をめぐる場面をこう記しています——衆ことごとく星のように散り退いたが、王平の領する千人だけは太鼓を鳴らして陣を保ち、魏の張郃は伏兵を疑って、深追いをしなかった、と。その隙に、王平は散り散りになった本隊の兵を集めて、漢中へ撤収させます。
街亭の敗報を受けて、諸葛亮は祁山も諦め、西県の千余家を率いて漢中まで退きます。隴右の三郡は、ふたたび魏のもとへ戻った。第一次北伐は、ここで終わったのです。
第4話 · 漢中、涕を流して斬る
漢中に戻った諸葛亮は、馬謖を獄に下しました。
『三国志』馬謖伝には、ただ「謖、獄に下りて物故す」とのみ。だが、裴松之が引いた『襄陽記』には、もう一つの記事が残っています——参軍の蒋琬(しょうえん、のちに丞相職を継ぐ人物)が漢中に駆けつけ、こう諫めた。
「天下、いまだ定まらぬのに、智計の士を戮(りく)するとは——いかにも惜しい」
諸葛亮は、答えました。
「孫武が天下に勝ち得たのは、法の明らかさによる。いま四海は分かれ、戦いはまさにこれから——もし法を犯して斬らねば、何をもって賊を討つことができようか」
そして、その問答の脇に、馬謖伝が短く書き添えています——
亮為之流涕 (亮は之の為に涕を流せり)
諸葛亮自身が、自分が見出し、参軍に取り立て、南征の助言者にもしてきた馬謖を、軍法のもとに斬らせ、その死を聞いて涙を流した。
そして諸葛亮は、自分自身にも罰を下します。劉禅(りゅうぜん)に上書して、自ら三等を貶(おと)すことを請い、右将軍として丞相の職務を代行する身に降った——「臣、人を用いること明らかならず、その責は臣にあり」。位は下げ、実権は手放さない——斬る側もまた、同じ重さを引き受けたわけです。
千八百年経って、いまも「泣いて馬謖を斬る」と言うとき、私たちは、私情を抑える厳しさだけでなく、その人を信じて起用した側の重さを、同時に思い出している——のかもしれません。