「土壇場で逆転した」「土壇場でキャンセル」——縮めてドタキャン。もう後がない、最後の最後の場面のことです。

漢字で書けば土壇場。土を盛った壇のある場所です。辞書を引くと、こう説明されています。近世、首切りの刑を行うために築いた土の壇。前に穴を掘る。

ところが、江戸の刑罰の記録を開くと、首が落ちる穴の後ろに、その土の壇は描かれていません。

第1話 · 土を盛った壇

「土壇」は、もともと刑罰の言葉ではありませんでした。

後漢の蔡邕(さいよう)が書いた『独断』に、「天子の社稷(しゃしょく)の土壇は、方広五丈」とあります。土地と穀物の神をまつる、土の壇です。日本でも鎌倉時代の説話集『古事談』に、お堂の土台を「土壇」と呼ぶ例があり、茶の湯では炉の内側に土を厚く塗った壁を土壇と言いました。

土で築いたものなら、なんでも土壇。神をまつる壇も、お堂の土台も、炉の壁も同じ名前でした。では、江戸の刑場で、土壇は何に使われていたのか。

第2話 · 穴の前で

国会図書館に、天保七年(1836)に書き写された『刑罪大秘録』という本があります。江戸の刑罰の手順を、絵入りで記した記録です。

江戸の死罪の首打ちは、伝馬町の牢屋敷の中で行われました。この本で死罪と同じ手順とされる刑の図を見ると、罪人は筵(むしろ)に座らされ、その前に穴が一つ掘ってあるだけです。斬られた首は、その穴に落ちる。土を盛った台は、どこにも描かれていません。

辞書の「前に穴を掘る」は、この穴のことでしょう。けれど記録の図では、穴の後ろにあるのは筵で、土の壇ではありませんでした。

第3話 · 刀を試す台

土壇が出てくるのは、同じ本の「御様(おためし)之事」という別の条です。

当日御様し場へ土壇弐ケ所築(『刑罪大秘録』御様之事)

刑の当日、御様場(おためしば)という場所に土壇を二つ築く。刑が済むと、遺体をそこへ運び、土壇に載せて竹の杭で挟み、刀の切れ味を試す。立ち会いには、将軍家の刀を預かる御腰物奉行(おこしものぶぎょう)や、刀の鑑定の家・本阿弥(ほんあみ)も加わります。御様は、将軍家の刀の切れ味を確かめる公の御用でした。挿絵の土壇は、高さ二尺四寸(七十センチほど)の土の台です。斬った刃が下の土壇まで届くことを「土壇払い(どたんばらい)」と言い、刀の出来を示す言葉にもなりました。

試し斬りの御用を代々務めた山田浅右衛門(やまだあさえもん)の家の五三郎が、弘化四年(1847)に稽古場の土地を願い出たときの書類には、「宅え土壇場取建」——自宅に土壇場をこしらえる、という言い方が出てきます。

第4話 · 二の足を踏む

もっとも、江戸の読み物には、土壇の上で首を打つ場面も出てきますし、刑場そのものを土壇場と呼んだ川柳もあります。『日本国語大辞典』が挙げる「土壇場」のいちばん古い例(1772 年の笑い話「首売」)も「政宗の刀を出され、どだんばへつれ行しに」で、名刀と首の話が同じ場所に重なっています。世間の思い描く土壇場は、早くから刑場全体のことだったのでしょう。

この言葉が「後がない場面」の意味で使われるのは、いま確かめられる例では、明治に入ってからです。同じ辞典は 1908 年の小説を挙げますが、広津柳浪(ひろつりゅうろう)の『乱菊物語』(1902)に、もう「土壇場に成って、二の足を踏む様じゃ仕様がねえ」とあります。

読み方も、江戸の仮名書きでは「どだんば」と書く例が多く、明治の本ではルビが「どたんば」と「どだんば」で揺れ、やがて澄んだ「どたんば」に落ち着きました。

のちには業界用語から「ドタキャン」まで生まれたといわれます。いま土壇場と聞いて、土の台を思い浮かべる人はまずいません。それでも、最後の最後を言うこの言葉をさかのぼると、江戸の記録には、刑の当日に築かれ、刀の切れ味が確かめられた、低い土の台があります。