「縁起」という言葉、いま使うのはだいたい「縁起がいい」「縁起が悪い」「縁起をかつぐ」。物事の吉凶や、ちょっとしたジンクスを語る一語です。「縁起でもない」と顔をしかめることもあります。
でも語源をたどると、これは仏教でもっとも根本にある思想で、しかも釈迦が菩提樹の下で悟ったとされる、世界の見方そのものだったと知るとちょっと驚きます。
第1話 · 「縁って起こる」——釈迦の悟り
まず、もとの意味から。
「縁起」は、サンスクリットのプラティートヤ・サムトパーダという長い語の漢訳です。「縁って(よって)起こる」という意味で、漢語では「因縁生起」と言い、それを縮めて「縁起」と呼びます。
その中身を、経典はこう言い表します。
此(こ)れ有るが故に彼(か)れ有り、此れ起こるが故に彼れ起こる
何かが在るのは、それ単独で在るのではない。別の何かが在るから、それに「縁って」在る。釈迦が悟りをひらいたとき見とおしたのは、この「世界はすべて、たがいに縁って起こっている」という理法だった——と仏典は伝えます。
第2話 · 因と縁——独りで在るものはない
もう少しかみくだきます。
「因」とは、結果を生む直接の原因。「縁」とは、それに寄りそって結果を起こす、間接の条件のことです。
たとえば、一粒の種(因)があっても、それだけでは芽は出ない。土があり、水があり、光があり、温度がそろう(縁)。そうしてはじめて、芽が出る。世の中のあらゆる物事は、こんなふうに、無数の因と縁が組み合わさって、そのつど立ちあらわれている——というのが、縁起の見方です。
だから、独りでぽつんと在りつづけるものは、ひとつもない。条件が変われば、姿も変わる。仏教が説く「無常」も「無我」も、もとをたどればこの縁起から流れ出しています。苦しみさえ、因と縁から起こるのなら、その条件をほどけば、消すことができる——縁起は、仏教の救いの設計図でもありました。
第3話 · 社寺縁起——「いわれ」へ
この深い言葉が、日本へ入って、少しずつ着地点を変えていきます。
大きかったのが、寺社の世界での使われ方です。お寺や神社が、「うちの本尊はこういう由来でまつられた」「この観音さまには、こんな霊験がある」——その成り立ちや、ありがたいいわれを語り伝える書物や絵巻を、「社寺縁起」と呼ぶようになりました。
奈良時代には、諸大寺がその来歴を朝廷に届け出た『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』などがあり、平安時代の末には『信貴山縁起絵巻』のように、絵で語る縁起も人々に親しまれます。
ここで「縁起」は、「すべては縁って起こる」という哲学から、「物事の起こり・由来」という、ぐっと身近な意味へとずれていきました。
第4話 · 「起こり」から「きざし」へ
最後の一歩は、「起こり」から「これから起こることの、きざし」への移動でした。
由来やいわれを気にするうち、人々の関心は「では、これから良いことが起こるのか、悪いことが起こるのか」へと向かいます。良いきざし=縁起がいい。悪いきざし=縁起が悪い。わざわざ良い前兆をかつぎ寄せようとするのが「縁起をかつぐ」。
仏教の側から見れば、これは本義からの転用——「縁起をかつぐ」を仏教の教えと取り違えるのは代表的な誤解だ、とよく戒められます。けれど、根のところでは、案外つながってもいる。すべてが縁って起こるのなら、いま目の前の小さなきざしも、これから起こる何かの「縁」のひとつ、と言えなくもないからです。
「縁起がいいね」——そうつぶやくとき、私たちは知らず識らず、釈迦が菩提樹の下で見とおした世界の見方を、ほんの少しだけ、口にしているのかもしれません。