「風林火山」——戦国最強と恐れられた武田軍の、あの旗の言葉です。疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く。大河ドラマの題名にもなりました。
でもこの四文字、実は信玄の旗には書かれていません。それどころか、戦国時代の記録のどこを探しても「風林火山」という言葉自体が出てこない——そう聞いたら、少し意外ではないでしょうか。
第1話 · 風林火山には、続きがあった
出発点は、いまから二千五百年ほど前の中国です。春秋時代、呉の王・闔閭(こうりょ)に仕えた兵法家・孫武(そんぶ)。その名を伝える兵法書が『孫子』です。
その第七篇・軍争篇——軍をどう動かすかを説いた章に、こんな一節があります。
其の疾(はや)きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し(『孫子』軍争篇)
風のように速く、林のように静かに、火のように攻めかかり、山のように動じない。——ここまでが、おなじみの風・林・火・山。でも原文は、そこで終わっていません。陰のように見通しがたく、雷のように激しく動く。風・林・火・山・陰・雷。もともとは六つのたとえだったのです。
第2話 · およそ二千年後、甲斐の国で
この一節を旗に掲げた武将が、日本にいました。甲斐の戦国大名・武田信玄です。
軍記『甲陽軍鑑』によれば、信玄がこの旗を戦場に立てはじめたのは、宿敵・上杉謙信と激突した、あの川中島の決戦(永禄四年・1561)のころからと伝わります。旗に大書されたのは、
疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山
原文にある「其」の字を省き、そして「陰」と「雷」の二句をまるごと落とした、十四文字でした。
なぜ四句で切ったのかは、わかっていません。ただ——風・林・火・山、ひと目で情景の浮かぶ自然だけが残ったこの十四文字が、旗印としてたしかに強かったことは、その後の四百年が証明することになります。
第3話 · 紺地に金泥の十四文字
その旗の実物とされるものが、いまも山梨県に残っています。名高いのは甲州市・雲峰寺(うんぽうじ)の一枚。武田家滅亡ののち、遺臣たちが納めたと伝えられるものです。
紺に染めた絹の地に、金泥で十四文字。書いたのは信玄が師と仰いだ恵林寺(えりんじ)の禅僧・快川紹喜(かいせんじょうき)と伝えられます。のちに織田軍の焼き討ちのなかで「心頭を滅却すれば火もまた涼し」と唱えたと語り継がれる、あの僧です。
そしてこの旗、「孫子の旗」あるいは「孫子四如の旗」と呼ばれてきました。「如」の字が四つ並ぶから、四如。——つまり昔からの呼び名にも、「風林火山」の四字はどこにもないのです。
第4話 · 「風林火山」は、昭和生まれ
では、誰がいつ「風林火山」と縮めたのでしょう。
戦国時代の文献に、この四字の言葉は見当たらない——歴史研究家の鈴木眞哉がそう指摘しています。広まった起点とみられているのは、昭和。井上靖が昭和二十八年(1953)に連載を始めた小説『風林火山』です。軍師・山本勘助の目から武田家を描いたこの作品は、のちに映画になり、2007 年には NHK 大河ドラマにもなりました。
おもしろいことに、この題名、連載のときには担当記者から「いかなることを意味しているか、よく解らない」と首をひねられた——井上自身が、のちにそう回想しています。いまや信玄の代名詞になった四文字は、旗が立ってから四百年後に、小説の題名として生まれた呼び名だったのです。
孫子の六句から、信玄は四つを選んで旗にした。その旗に、昭和の小説家が四文字の名前を贈った。「風林火山」は、二千五百年のあいだに、三つの時代の手を渡ってきた言葉なのです。