「臥薪嘗胆」という言葉、いま使うのはだいたい「目的のために、長く苦難に耐え続けること」。日常で口にすることは少ないけれど、新聞や小説で「臥薪嘗胆の末に——」と、ふっと顔を出します。

でも語源をたどると、これは春秋末の中国、呉と越という隣り合った二つの国が、王を継いで二十二年——薪の上で寝た王と、胆を舐めて自分に問い続けた王の、長い復讐の話だったんです。

第1話 · 闔閭、親指を射られて死す

舞台は紀元前 496 年ごろの中国、長江のほとり。

東の呉と、その南の越は、長く争いを続けていました。呉王・闔閭(こうりょ)は、伍子胥(ごししょ)や孫武といった名臣を抱える戦上手。いっぽうの越は、越王・允常(いんじょう)が死んだばかりで、その子・勾践(こうせん)が新たに位を継いだところ。

闔閭はこの隙を突こうと、軍を率いて越に攻め入りました。場所は檇李(すいり)——いまの浙江省嘉興のあたり。

ところが、勾践はただではやられなかった。『左伝』が伝えるところでは、死を覚悟した罪人を三列に並べて、自ら剣を首に当てて自害させるという奇策で呉軍を動揺させ、その隙に切り込んでくる。乱戦のなか、闔閭は越の将・霊姑浮(れいこふ)の戈(か)で、足の親指を切り裂かれてしまう。

撤退の途中で傷が悪化し、闔閭は死んだ。臨終のとき、呉の太子・夫差(ふさ)に向かって、ひとことだけ告げたと伝わります。

「越人が、お前の父を殺したことを、忘れるな」

第2話 · 薪の上の三年

夫差は、即位して、自分を毎日試しました。

寝床に薪を敷いて、その上で寝る。痛い。そして部屋の出入り口に家臣を立たせて、自分が通るたびにこう叫ばせた——「夫差、越人が父を殺したことを、忘れたか」。

朝に薪、夜に問い。それを二年あまり。父のひとことを、薪の硬さに変えて、毎日自分の体に押しつけ続けた。

そのあいだ、伍子胥と練り上げた呉軍は、目に見えて強くなっていきます。

紀元前 494 年。夫差は越に攻め入りました。夫椒(ふしょう)の戦いで、勾践の越軍を打ち破る。勾践はわずか五千の兵を率いて、会稽山に立てこもった。

ここで、越の家臣・范蠡(はんれい)文種(ぶんしゅ)が、命がけの策を絞り出します。呉の宰相・伯嚭(はくひ)に賄賂を贈り、夫差を説き伏せて、降伏を呑ませる——勾践は呉に仕えることを誓って、命だけは許された。

伍子胥は強く反対した。「いま越を絶やさなければ、後で必ず呉を滅ぼします」。だが夫差は、もう薪の上の三年を忘れかけていた。

第3話 · 会稽の恥、胆の味

勾践は、家臣たちと呉に渡り、馬の世話役のような身分で夫差に仕えました。三年——紀元前 491 年に、ようやく釈放されて、越に戻ることができた。

帰国した勾践が、最初にしたこと。

部屋の天井から、苦い胆を一つ吊るして、座右にも置く。食事の前、寝る前、毎日それを舐めた。そして、自分にこう問う——「会稽の恥を、忘れたか」。

『史記』越王句踐世家には、こう記されています。

苦身焦思、置膽於坐、坐臥即仰膽、飲食亦嘗膽也 (身を苦しめ思いを焦らせて、胆を座右に置き、坐っても臥しても胆を仰ぎ、飲食にもまた胆を嘗(な)めた)

それから十八年。勾践は民とともに耕し、政を整え、兵を訓し、商人を遠国に飛ばして情勢を探らせた。

一方の呉では、夫差が中原の覇権を望んで北へ目を向け、伯嚭の讒言を信じて、伍子胥に死を命じます。紀元前 484 年、伍子胥は属鏤(しょくる)の剣で自刎し、こう遺言したと伝わる——「我が眼を抜いて呉の東門に掛けよ。越が入城するさまを、見届けたい」。

第4話 · 姑蘇、王の最期

紀元前 473 年。夫椒の戦いから、二十二年。

夫差が北方遠征で都を空けた隙を突いて、勾践は呉に攻め入りました。長い消耗戦のすえに、夫差は呉の都・姑蘇(こそ)に追いつめられる。

最期、夫差は顔を覆って、こう言い残したと『史記』は伝えます。

吾、子胥に見ゆる無し (伍子胥に、もう合わせる顔がない)

夫差は自ら命を断ち、呉は滅びた。勾践は、二十二年の問いに、ようやく自分で答えを出した。

実は——『史記』越王句踐世家には、勾践の「嘗胆」しか記されていません。夫差が薪の上に寝たくだりは、ここから千四百年あとの、元代の歴史書『十八史略』ではじめて物語として補われたものなんです。それより前、北宋の蘇軾(そしょく)が「臥薪嘗胆」の四字を書き残していた。長い時間を経て、薪と胆は、ようやく一つの四字熟語に並んだ。

二千五百年経って、いまも、本当に取り返したい何かがある人のそばに、この四字は静かに残っています。