「言語道断だ」。使えるかぎりで、いちばん強い部類の叱り方です。もってのほか、とんでもない、話にならない。新聞の見出しでも、記者会見でも、非難の最上級として働きます。
ただ、この四字は読み方が変です。「言語」と書いてげんごと読まず、ごんごと読む。ふだんの「言語」とはっきり読み分けられている。この読みの違いが、そのまま出どころの目印になっています。
第1話 · 言葉の道が、断たれる
もとは仏教の言葉です。六世紀の中国、天台の『摩訶止観』に、こういう対句があります。
言葉の道は断たれ、心の行くところも滅す——言語道断、心行処滅(『摩訶止観』)
悟りの境地はあまりに深く、言葉で説明する道がない。考えて行き着ける場所でもない——そういう意味です。
ほぼ同じ句は『菩薩瓔珞本業経』にもあり、辞典や事典が古い出典として挙げることがあります。どちらにせよ、仏の悟りの深さを言うための決まり文句でした。
つまり、ものごとを低く言う表現ではありません。むしろ逆で、最上級の深さを表している。言葉が足りないのではなく、言葉というやり方そのものが通用しない領域を指しています。のちに禅が掲げる「不立文字」——文字を立てない、という構えと同じ問題意識の延長にあります。
第2話 · 呉音が、出どころを覚えている
漢字の音読みには、大きく分けて呉音と漢音があります。日本に先に入ってきたのが呉音で、仏教の言葉はこちらで読む慣習が続きました。
勤行を「ごんぎょう」、金色を「こんじき」、成就を「じょうじゅ」と読むのが、その系統です。「言語道断」の「ごんご」も同じ。
ここで、順番が思っているのと逆になります。江戸のころまで、「言語」の二字は漢音のげんぎょと呉音のごんごが並んで使われていました。いまの「げんご」が生まれるのは明治のはじめ。漢音の「ゲン」と呉音の「ゴ」が混ざってできた、比較的新しい読みです。
つまり「ごんご」のほうが先輩で、「げんご」があとから来た。私たちは新しいほうの読みを日常に使いながら、この四字のところだけ、古いほうの読みを残しているわけです。
第3話 · 良いほうにも、振れていた
日本語に入ると、意味は少し軽くなります。「言葉で言い表せないほど」という強調の型として使われるようになった。
ここが面白いところで、言い表せないほどには方向がありません。すばらしすぎて言葉にならない。ひどすぎて言葉にならない。どちらでも成り立ちます。
実際、平安のころにはもう両方の用例が揃っています。『明衡往来』は和歌をほめて「心目の感ずるところ、言語道断なり」と書き、同じ十一世紀の東大寺の文書では、参上しないことを「更に言語道断なり」と責めている。室町の謡曲にいたっては、こんな台詞まで出てきます。
言語道断、面白きことを仰せられ候(謡曲『花月』)
現代語でいえば「やばい」に近い立ち位置です。程度が振り切れていることだけを示して、良し悪しは文脈が決める。
第4話 · 片側だけが残った
やがて用法は非難の側に寄っていきます。いま「言語道断の出来だ」と言えば、ほめていると受け取る人はいません。「言語道断の名演だった」とは、もう言えない。
なぜ悪いほうに落ち着いたのかは、はっきりしません。ただ、強い言葉は驚きよりも怒りに使われやすい、とは言えそうです。「あきれた」という語も、もとは程度の甚だしさを言うだけで、いつのまにか片側に寄りました。ほめるための最上級は、次から次へと新しい語が生まれて入れ替わる。叱るための最上級だけは、古い語が居座りつづける。
こうして、深すぎて言葉が届かないという意味だった四字は、言葉で相手を叱りつけるときの決まり文句になりました。
言葉の道が断たれる、という宣言だったものを、いま私たちは言葉のいちばん強い一撃として使っています。使うたびに、意味のほうは静かに裏返っている。