「五里霧中」という言葉、いま使うのはだいたい「先が見通せない」「手がかりがつかめず迷っている」という意味。原因不明のバグを追っているとき、計画の落としどころが見えないとき——「五里霧中です」と言って、思わずため息をつく。
でも語源をたどると、これはおよそ千九百年前の後漢、弘農の山中で、ひとりの儒者が本当に五里四方の霧を呼んでいた——という、ちょっとふしぎな物語なんです。
第1話 · 弘農の山に、ひとりの儒者
舞台は二世紀のなかごろ、後漢。場所は弘農郡 華陰(こうのうぐん かいん)——いまの陝西省、長安の東にあたる山の麓。
主人公は、張楷(ちょうかい)。字を公超(こうちょう)といいます。父は当代きっての名儒、張霸(ちょうは)。楷自身も『嚴氏春秋』と『古文尚書』に通じ、門弟が常に百人を数えていたと『後漢書』は伝えます。
家のまわりは、毎日のような賑わいでした。父の旧友や古参の儒者まで挨拶に押しかけ、馬車が街路を埋め尽くす。あんまり人が集まるので、近所の家までが楷の家への通り道で商売を始めるほどでした。
うんざりした楷は、家ごと引き払って何度か移ります。家は貧しく、ロバ車で薬を売り歩いて、日々の食い扶持だけ得たらすぐ家に帰る。司隷校尉が茂才に挙げ、長陵令に任じたときも、ついに赴任しませんでした。
ついに楷は、弘農の山中に隠居します。それでも学者たちは追ってやって来て、住むところがそのまま市のような賑わいになった。後世、華陰の山の南には「公超市」という地名が残ったといいます。
第2話 · 五里の霧
そんな張楷は、儒者でありながら、もうひとつ得意なものを持っていました。
性、道術を好み、能く五里霧を作る——性好道術、能作五里霧(『後漢書』張霸列傳附 楷傳)
道家の方術——いまでいう神仙術——を好み、五里四方を覆う濃霧を呼べた、というのです。
後漢の一里は、およそ四百メートル余り。五里で、ざっと二キロ四方。弘農の山ぜんたいを、湿った白い壁で包んでしまえるほどの広さです。
学者の門弟たちは、講義のあいまにその霧の中に放り出され、しばらく友を見失う——そんな日が、たぶん何度もあった。儒と道が同じ一人の体に同居していた時代の、奇妙な穏やかさです。
第3話 · 三里霧と、関西の男
ところが、その霧を、別の使い方で見ていた男がいました。
関西、つまり函谷関の西に住む、裴優(はいゆう)という人。優もまた道術をかじり、自分でも霧を起こせたといいます。ただ、その範囲は三里まで。
優は、自分は張楷に及ばないと知っていました。そこで、なんとか弟子入りして、五里にまで届く術を学ぼうとした。が——楷は、避けて会いませんでした。
やがて、桓帝が即位したころ。優は、覚えた三里の霧をついに「使い始めて」しまいました。霧の中で人目をくらまし、盗賊働きを始めたのです。
事は当然、露見します。捕えられた優は、取り調べを受けるなかでこう引いた——「自分は張楷から術を授かった」。
連座した楷は、首都に押送され、廷尉の詔獄に繋がれました。二年。獄中の楷は、しかし慌てず、経籍をひたすら諷誦し、なんと『尚書』の注釈書まで書き上げたといいます。
ようやく事に証なしと認められ、楷はもとの家に戻されました。
第4話 · のちの世に残ったこと
帰郷した楷は、それからもふたたび山に隠れ、政府からの召し出しを断り続けて生涯を終えます。
『後漢書』の編者・范曄(はんよう)が、この一連の話を巻三十六に書き留めたのは、五世紀の南朝・宋。儒者の伝記の末尾に、五里霧と廷尉の獄を、淡々と並べて置いた。
ここから時代がさらに下ると、人々は「五里の霧」を、別の使い方でも口にするようになりました。五里四方の濃霧の中にいるように、先が見通せない——その情景を、そっくり比喩として借りる。「五里霧の中(うち)に在るが如し」のような言い回しから、五里霧中 という四字熟語が生まれ、東アジアに広がっていきます。
会議の方向性が見えず「いまは五里霧中で」とつぶやくとき。原因の分からないバグの中で「完全に五里霧中」とこぼすとき。その霧の奥には、後漢の弘農の山で、本当に霧を呼んだ儒者と、その霧で悪さをした男が、ぼんやり立っている——のかもしれません。