「愚痴(ぐち)」という言葉、いま使うのはたいてい、こぼす側でしょう。上司が、家族が、世の中が。言っても変わらないと知りながら、それでも口から出てしまうあれです。
でも漢字を眺めると、「愚」も「痴」も意味はおろか。おろかを二つ重ねている。しかも「痴」には、やまいだれがついています。
もとは、ぼやきの名前ではありません。仏教が人間の根っこに見た、三つの毒のうちの一つです。
第1話 · 毒は、三つある
仏教は、人を苦しめる煩悩の親玉を三つに絞ります。三毒——貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴。むさぼりと、怒りと、愚痴。
梵語(サンスクリット)では rāga・dveṣa・moha(モーハ)。三つ目を漢語に訳したのが「癡(ち)」「愚癡」です。
意外なのは、この三つが横並びでないこと。竜樹(りゅうじゅ)の名で伝わる『大智度論』巻三十一は、まず貪りと怒りの出どころを述べます。得になる相手にはむさぼりが起き、逆らう相手には怒りが起きる。そして——
この結使は智より生ぜず、狂惑より生ずるが故に、是を癡と名づく。三毒は一切の煩悩の根本なり——此結使不從智生、從狂惑生故、是名爲癡。三毒爲一切煩惱之根本(『大智度論』巻三十一)
結使(けっし)とは、煩悩のこと。むさぼりも怒りも、智慧からではなく狂惑——正気を失った惑いのほうから来ている。だから癡と呼ぶ、というわけです。
つまり愚痴は「頭が悪い」ではありません。ものごとの筋道が見えていないこと。むさぼりと怒りを送り出している側のことです。
第2話 · やまいだれの、下
経典に並ぶのは「癡」の字。『説文解字』は「不慧なり」と説き、疒(やまいだれ)に「疑」を合わせた形声字とします。日本で使う「痴」は、音の部分を「知」に替えた異体字。字は替わっても、やまいだれは残りました。
毒であり、病でもある。だから仏典は薬も出します。『大般涅槃経』巻三十九が挙げるのは、貪欲には不浄観、瞋恚には慈心観、そして愚痴には因縁を観ずる智——ものごとは互いの条件で成り立っていると観ること。
『倶舎論』はもっと素っ気なく、「癡とは所謂(いわゆる)愚癡、すなわちこれ無明」と言うだけ。明かりがない。それだけ。
第3話 · かへらざる事を、くやみ
この言葉が日本に来ます。
天平十九年(747 年)の『元興寺(がんごうじ)伽藍縁起并流記資財帳』に「愚癡邪見(ぐちじゃけん)」の四字。まだ経典の語のまま。中世のあいだ意味はほとんど動きません。
はっきり傾くのは江戸に入ってから。寛文十二年(1672 年)の仮名草子『小さかづき』に、こんな一行があります。
痴は愚痴とて、かへらざる事をくやみ叶はざる事をおもふ事也(仮名草子『小さかづき』1672 年)
「痴」の説明のはずが、出てきたのは「取り返しのつかないことを悔やみ、叶わないことを思う」。道理に暗いという大づかみな話が、人の嘆き方に置き換わっている。『日本国語大辞典』がいまの語義の最古の用例に挙げる一行です。
第4話 · ぐどぐどぐどぐど
とはいえ、そこでぱたりと入れ替わったわけでもない。
近松門左衛門の『心中天の網島(しんじゅうてんのあみじま)』(1720 年)に「私よりこなさん猶(なお)ぐちな」——お前のほうが愚かだ、の「ぐち」。十八世紀に入っても、古い意味はまだ現役でした。
変わったと見えるのは三十年ほど後。浄瑠璃『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』(1751 年)の台詞——「何ぢゃやらぐどぐどぐどぐどと、愚痴な事ばかりいはしゃるわいの」。
ぐどぐどぐどぐど。四回。ここまで来れば、もう今日の愚痴です。舞台で嘆いてみせる人がいて、その様子に名前が要った。言葉が転がるのは、たいていそういう現場です。
「愚痴をこぼす」は幕末の人情本に、「愚痴る」は二葉亭四迷の『其面影』(1906 年)に顔を出します。どの時点で言い回しとして固まったのかまでは、決められません。
三毒の一つを、私たちは毎晩のように分け合っている。大げさですが、悪くない見立てだと思うんです。返らないと知りながら返せと言ってしまう。たしかに道理は呑み込めていない。呑み込めていないから、まだ言う。
やまいだれの下で、今日も誰かがぼやいています。