「牛耳を執る(ぎゅうじをとる)」。会議でも業界でも、主導権を握る側にまわることを言います。もっと短く「牛耳る」を使うほうが、いまは多いでしょうか。
この「牛耳」、比喩ではありません。牛の、耳です。しかも原典を開くと、その耳を持たされていたのは、その場でいちばん偉い人ではなかったらしい。
第1話 · 牛を殺して、耳を裂く
春秋時代、国と国が約束を交わすのに、署名では足りませんでした。神を立ち会わせます。これが会盟(かいめい)。
まず牛を殺す。耳を裂いて血をとり、参加者はその血を口のあたりにつける——それが歃血(そうけつ)。すすったとも、唇に塗ったとも読まれます。誓いの文句は書きつけ、いけにえといっしょに土へ埋めた。
器の名前まで残っています。『周礼』天官・玉府に「若(も)し諸侯を合すれば、則ち珠槃(しゅばん)・玉敦(ぎょくたい)を共(そな)う」。後漢の鄭玄(じょうげん)の注では、珠槃に牛の耳を載せ、玉敦に血を盛る。
1965 年からの発掘で、山西省の侯馬(こうば)から、朱で誓いの文句を書いた玉石片が五千点あまり出土しています。文字が読めるのは六百五十六点。書いて埋める。本当にやっていた。
第2話 · 諸侯の盟、誰が牛耳を執る
紀元前 478 年。魯の哀公が、斉の平公と蒙(もう)という土地で盟うことになりました。付き添ったのは魯の大夫、孟武伯(もうぶはく)。
血をすする段になるまえに、武伯はそばにいた高柴(こうさい)に尋ねます。孔子門下に名の残る人で、その孔子は、前の年に亡くなったばかりでした。
諸侯の盟、誰か牛耳を執る——諸侯盟、誰執牛耳(『春秋左氏伝』哀公十七年)
高柴は前例を二つ挙げました。鄫衍(そうえん)の会では呉の公子姑曹(こそう)、発陽(はつよう)の会では衛の石魋(せきたい)。どちらも国君ではなく、家臣の名前です。
聞いた武伯は言います。「では、わたしですね」——書き下せば「然らば則ち彘(てい)なり」。彘は、武伯自身の名でした。
第3話 · 手首まで、血がのぼった
威勢のいい名乗りに見えますが、注釈の読みは逆を向いています。
盟に牛耳を用う、卑者これを執り、尊者これに蒞(のぞ)む——盟用牛耳、卑者執之、尊者蒞之(『春秋左伝正義』定公八年)
唐の孔穎達(くようだつ)の疏(そ)です。礼のたてまえでは、実際に耳を持つのは格下の側で、格上はそこに臨むだけ。斉と魯なら、魯が小さい。「では、わたしですね」は宣言ではなく、役回りの確認だったことになります。
その二十四年前、紀元前 502 年。晋の軍が衛の霊公を鄟沢(せんたく)に呼びつけます。趙簡子(ちょうかんし)が「誰か衛君と盟う度胸のある者は」と問い、名乗り出たのが渉佗(しょうた)・成何(せいか)という二人の大夫。衛は「牛耳はそちらで」と申し入れます。格でいえば、大夫のほうが下だからです。
成何は撥ねつけました。「衛など晋の温(おん)・原(げん)と同じ、うちの一県だ。諸侯扱いできるか」。歃血の段になると渉佗が霊公の手を突き、血は手首までのぼった。衛はこののち、晋を離れます。
第4話 · 江戸の本に、その言葉があった
日本語に入ってきたとき、それはもう文芸の世界の言葉でした。『日本国語大辞典』が「牛耳を執る」に引くいちばん古い例は、天明三年(1783 年)の『授業編』。学問の心得を説いた本の凡例で、著者の江村北海(えむらほっかい)が謙遜します。「余賤しくして又芸苑に牛耳をとる身にもあらねば」——文壇の第一人者でもないので、と。
明治になると、徳富蘆花(とくとみろか)が『思出の記』に「学校を握る者は社会の牛耳を握るのである」と書きます。執るが、握るに変わっている。
そして大正三年(1914 年)、桜井忠温(さくらいただよし)の『雑嚢』にこの一行が出ます。「大いに兵器界を牛耳ってゐるさうだ」。名詞に「る」をつけて、動詞ができた。辞書の引く例でいえば、「サボる」より十年ほど早い。
いま「牛耳る」と言うとき、浮かぶのは頂点に立つ姿です。けれど注釈家が読んだのは、耳を捧げ持っていたのは格下の側だ、ということでした。
持たされていた手が、いつのまにか、握っている手になっている。言葉のほうが出世した話でもあります。