「鼎の軽重を問う(かなえのけいちょうをとう)」という言葉、いま使うのは、上に立つ人の実力を疑うとき。「新社長の鼎の軽重が問われる」——その椅子にふさわしいか、値踏みしてやろう、という場面です。読みは「けいじゅう」ではなく「けいちょう」。辞書がはっきり誤りと書いています。
語源をたどると、春秋時代、南の大国の王が、名ばかりになった天子の宝物に「それ、どれくらいの重さですか」と尋ねた——たったそれだけの、しかしとんでもなく無礼な一言から生まれた話なんです。
第1話 · 帰り道を、北へ折れる
紀元前 606 年。楚(そ)の荘王(そうおう)は、陸渾の戎(りくこんのじゅう)を討ちます。異民族の討伐は、まあ、よくある話。問題は、その帰り道です。
荘王は軍を国へ返さず、北へ折れた。雒水(らくすい)のほとりまで進み、周の王畿(おうき)の境に、兵をずらりと並べます。『春秋左氏伝』はこれを「兵を周の疆(きょう)に観(しめ)す」と書きます。観兵——閲兵の体裁を借りた示威です。
周は、名目のうえでは天下の主。けれど実力は、とうにない。都を東に遷して百六十年あまり、諸侯は勝手に覇を競っていた。その庭先に、南の大国の軍が立ったわけです。
第2話 · 周が出したのは、使者ひとり
折しも周は、定王(ていおう)の元年。即位したばかりの王に、武で応じる術はありません。
定王が送り出したのは、軍ではなく王孫満(おうそんまん)という男、ひとりきり。名目は「労(ねぎら)う」——遠征、お疲れさまでした、と。武の代わりに、礼を出したのです。
この王孫満、二十一年前にも記録に出てきます。まだ幼かった彼は、周の北門を通る秦軍を眺めて「秦師は軽くして無礼なり、必ず敗れん」と言い当てた。その年、秦軍は崤(こう)で大敗します。
周に残っていた最後の武器は、見る目と、舌だけでした。
第3話 · その鼎、いかほどか
ねぎらいを受けた荘王が、口を開きます。
「鼎の大小軽重を問ふ」——おたくの鼎は、どれほどの大きさで、どれほどの重さかね。
九鼎(きゅうてい)は、天子の位そのものを表す九つの青銅器。『左伝』によれば、夏(か)に徳があった頃、九州(きゅうしゅう)の長が青銅を貢いで鋳させ、夏から殷(いん)へ、殷から周へと渡ってきたもの(後世の『史記』は「禹が鋳た」と書きますが、『左伝』は鋳た人の名を挙げません)。
その重さを訊く、とはどういうことか。担いで持ち帰れるか測る、ということ。寄越せ、と言っている。
王孫満は、眉ひとつ動かさず答えました。
徳に在りて鼎に在らず
天下は徳しだいであって、鼎しだいではない、と。桀(けつ)に昏(くら)い徳があったから鼎は殷へ移り、紂(ちゅう)が暴虐だったから鼎は周へ移った。鼎は、徳のある側へ勝手に歩く。だから——徳の休明なれば、小なりと雖(いえど)も重きなり。よこしまで乱れていれば、大きくとも軽い。
第4話 · 占いは、七百と出た
ここからが、この話のいちばん面白いところ。王孫満は、周の衰えを否定しません。
周の徳衰ふと雖も、天命未だ改まらず
周の徳は衰えた。それは、認める。認めた上で、天命はまだ動いていない、と言い切ってみせる。成王が鼎を郟鄏(こうじょく)に据えたとき、占いは世三十代・年七百と出た。まだ、尽きていない。
そして、締めくくります。「鼎の軽重、未だ問ふべからざるなり」——それは、まだお尋ねになってよいものではない。
荘王は、兵を退いた——と書くのは『史記』です。鼎の実際の重さは、最後まで語られない。
もっとも、『左伝』の成立は戦国期とみるのが通説で、この長広舌をそのまま紀元前 606 年の速記録としては読めません。「年七百」の占いも、実際に周が続いた年数と合っていません。
それでも、この一節はよく残りました。王孫満が語った鼎の来歴に出てくる「螭魅罔両(ちみもうりょう)」が、そのまま魑魅魍魎の出典。中国語の「問鼎」は今も、政権を狙うこと——転じて、優勝を争うことを指します。
強がりでもなく、卑屈でもなく。衰えを認めた上で、それでも渡さない、と言う。その一言だけで大軍が引き返した——ということに、なっている話です。