「唇亡びて歯寒し」という言葉、いま使うのは「片方が傾けば、もう片方も危うい」「持ちつ持たれつで、運命を共にする関係」を言いたい場面です。
でも語源をたどると、これは春秋時代の中国で、目先の宝物に目がくらんで隣国を見殺しにし、その報いで自分も滅んだ、ある小国の話なんです。
第1話 · 二度目の「道を貸してほしい」
舞台は春秋時代、強国の晋(しん)と、その南に並ぶ二つの小国——虞(ぐ)と虢(かく)。
晋は以前から、目障りな虢を攻め落としたいと狙っていました。ただ、虢へ攻め込むには、隣の虞の領内を通らねばならない。そこで晋の知恵者荀息(じゅんそく)が一計を案じます。晋の宝、屈産(くつさん)の名馬と垂棘(すいきょく)の璧(へき)を虞公に贈り、「道を貸してほしい」と頼んだのです。
これが、紀元前 658 年の一度目。宝に目がくらんだ虞公は承知し、晋はまんまと虢の城ひとつ(下陽)を奪いました。それから三年後の紀元前 655 年、晋はふたたび虞へ、同じ願いを持ちかけます。「もう一度、虢を攻めたい。道を貸してくれ」——。
第2話 · 宮之奇、必死に止める
これに青ざめたのが、虞の賢臣宮之奇(きゅうしき)です。王の前に進み出て、必死に諫めます。
「虢は、虞の防壁です。虢が朝に滅べば、虞は夕には続きます。一度貸しただけでも度が過ぎているのに、二度までも、どうしてできましょうか」
そして、こう言い添えました。
輔車(ほしゃ)相(あい)依(よ)り、唇亡(ほろ)びて歯寒(さむ)しとは、其(そ)れ虞・虢の謂(い)いなり
頬骨と下顎が支え合い、唇がなくなれば歯が寒い——これはまさに、虞と虢の間柄のことなんです、と。
第3話 · 同族も、神も、あてにならない
ところが虞公は、聞き入れません。「晋は我らと同族ではないか。まさか、身内のこの虞を害するまい。それに私は、神々を手厚く祀っている。きっと神が守ってくださる」。
宮之奇は、その二つを、どちらも切り返します。
血縁を頼む王には——「晋の桓叔・荘伯の一族は、晋公にとって、もっと近い身内でした。それでも、ことごとく殺されたではありませんか。同族など、なんの守りにもなりません」。
神を頼む王には——「神は、徳のある者にこそ味方します。徳がなければ、民は安んじず、神もお享(う)けにはなりません」。
それでも、王の耳には届かない。万策尽きた宮之奇は、一族を引き連れて、虞を去りました。「虞は、年を越せまい」と言い残して。
第4話 · ただ、蔵が変わっただけ
その年の冬、晋軍は道を借り、虢を攻めて滅ぼします。そして、その帰り道。凱旋の途中で晋は虞に軍をとどめ、勝ち戦の祝いに気のゆるんだ隙を見すまして、手のひらを返したように、虞をもあっけなく併呑しました。虞公は捕らえられ、宮之奇の予言は、そっくりそのまま現実になったのです。
戻ってきたのは、かつて虞公に贈った、あの名馬と璧でした。それを眺めて、晋の君主は、満足げにこう言ったと伝わります(この後日談は、『史記』や『呂氏春秋』が伝えるものです)。
璧は、もとのまま。馬は、少し歯が伸びた(歳をとった)だけだ
贈った宝は、ぐるりと一回りして、そっくり晋の手に戻ってきた。隣の国もろとも——。ただ、蔵が変わっただけ。
隣を見殺しにした国が、隣とまったく同じ末路をたどる。唇を失った歯が、寒さに震えて気づくのは、いつも、失ってしまった後なんです。