「破竹の勢い(はちくのいきおい)」という言葉、いま使うのは「もう誰にも止められない勢い」。連勝中のチームや伸び盛りの会社の見出しに、平気で顔を出します。

でも語源をたどると、これは西暦 280 年、魏に代わった西晋が呉へ攻め込んだ年の、長江のほとりの軍議。馬に乗らない将軍が返した、十数文字の反論だったんです。

第1話 · 洛陽の「杜武庫」

主役は杜預(とよ)、字(あざな)は元凱(げんがい)。伝はこの人の身体能力を、ずいぶんはっきり書いています——「預、身は馬に跨(またが)らず、射は札(さね)を穿(うが)たず」。馬に乗らないし、射た矢は鎧を貫けない。

では何をしていたか。洛陽の役所仕事です。律令ができれば注解を書き、暦がずれていれば新しい暦を上奏し、黄河の渡しに橋を架けた。中央での七年で、人はあだ名を付けます——杜武庫(とぶこ)。武器庫みたいに、無いものがない、と。

第2話 · 碁盤を、押しやる

咸寧四年(278 年)、荊州を預かる羊祜(ようこ)が病に倒れ、後任に杜預を挙げて世を去ります。

鎮南大将軍として着任した杜預は、呉を討つ期日を早めるようくり返し上表します。武帝・司馬炎(しばえん)の返事は「来年にしよう」。

その表が届いたとき、武帝は中書令の張華(ちょうか)と碁を打っていました。張華は碁盤を押しやり、居ずまいを正して言います。「いま討てば、労せずして定まりましょう」。

咸寧五年(279 年)十一月、詔が下ります。六つの道から、東西あわせて二十余万。

第3話 · 長江に、鎖が張ってある

上流からは益州の王濬(おうしゅん)が下ってきます。みずから「年すでに七十」と上奏した老将で、蜀で七年、船を造りつづけてきました。

呉も手は打ってあります。浅瀬の続く川の難所に鉄の鎖を横へ張り、一丈あまりの鉄錐(てっすい)を水に沈めて、船底が刺さるのを待つ。

王濬は、まず大きな筏を先に流しました。錐は筏に引っかかって、そのまま運び去られていく。鎖のほうには、麻の油を注いだ長い松明を船首に立て、焼いて断ち切りました。二つの仕掛けは、どちらも通り抜けられます。

杜預は太康元年(280 年)正月に江陵(こうりょう)へ陣を敷き、二月、これを抜きます。

第4話 · あと半分、というところで

ここで軍議が開かれます。誰かが言いました。「百年の寇(あだ)、未だ尽くは克つべからず。今、暑に向かい、水潦(すいろう)まさに降り、疾疫まさに起こらんとす。よろしく来冬を俟(ま)ちて、更に大挙をなすべし」——夏が来る、長雨と疫病が出る、冬にもう一度、と。

杜預は、まず昔の話をします。楽毅(がくき)は済西の一戦で強国の斉を併せた、と。そして——

今、兵威すでに振るう。たとえば竹を破るがごとく、数節の後は、皆刃を迎えて解けん (今兵威已振、譬如破竹、數節之後、皆迎刃而解)——『晋書』杜預伝

はじめの数節を割ってしまえば、あとは刃を当てるだけで裂けていく。手を掛ける場所すら残らない。

杜預は諸将に手順を割り振り、軍は秣陵(まつりょう)へ直行します。呉の都・建業(けんぎょう)の、古い呼び名です。通り道の城は、どこも手向かわずに降ってきました。

三月、上流から下ってきた王濬の船団が石頭(せきとう)に着き、呉の皇帝孫皓(そんこう)は後ろ手を縛られて軍門に出ます。曹丕が魏を建ててから六十年。最後の一国が畳まれ、三国時代が終わりました。

冬まで待とうと言った人たちは、後日、手紙で詫びを入れたそうです。

杜預は功を立てたあと、ようやく手が空いて経籍に没頭した、と伝は続けます。書き上げたのは『春秋左氏経伝集解』。老いて、やっと成った。

その杜預は、人物評も残しています。王済(おうせい)には馬癖、和嶠(かきょう)には銭癖がある——これを聞いた武帝が面白がって尋ねました。「卿は何の癖ありや」。

臣に左伝癖あり (臣有左傳癖)——『晋書』杜預伝

竹を割るような勢い、と言い残した男が、いちばん夢中だったのは、七百年以上むかしの魯の年代記でした。