「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という言葉、いま使うのは「すでにこの世にいない人の威光が、生きている人を動かす」くらいの意味。新聞のコラムや、歴史読み物の見出しにときどき顔を出す、ちょっと大時代な一語です。

でも語源をたどると、これは紀元 234 年の秋、関中の五丈原で諸葛亮の死を看取った蜀軍が、敵将を逆に押し返した、退却の名場面の話だったんです。

第1話 · 五丈原、対峙すること百日

舞台は、蜀漢の建興十二年(234 年)、関中・五丈原(ごじょうげん)。渭水(いすい)の南、いまの陝西省宝鶏あたりの台地です。

二月、丞相諸葛亮(字は孔明)は、十万の兵を率い、斜谷(やこく)の道から関中へ出ました。第五次北伐。漢室の復興を諦めない、五十四歳の最後の出陣です。

迎え撃ったのは、魏の大将軍・司馬懿(しばい、字は仲達)。曹叡(そうえい)の命を受け、渭水のほとりに陣を布いて孔明と対峙します。司馬懿は野戦を避け、塁を固く守って動かない。

孔明は、何度か挑発しました。あるとき、女物の頭巾と髪飾りを使者にもたせて司馬懿の陣に贈り、「戦えぬなら、これでも被って奥にひっこんでいろ」と挑んだとも、後世の書は伝えます。だが司馬懿は応じない。「持久戦に持ち込めば、糧道の長い蜀が先に折れる」——その読みでした。

両軍は、五丈原のほとりで、百余日にわたり睨み合いを続けます。

第2話 · 丞相の食、細りはじめる

その間、孔明は、軍務の細部まで自ら裁いていました。「罰二十以上は、皆みずから親覧す」——裴注引『魏氏春秋』が、そう伝えます。

食事は数升ばかりで、痩せが見えはじめた、と。

司馬懿は、蜀の使者を呼んでは、孔明の食事と仕事ぶりを尋ねさせる。使者が立ち去ったあと、司馬懿は諸将に向かって、こう漏らしたと言います。

「亮の食は少なく、事は多し。その能く久しからんや(長くは持つまい)

果たして、その秋——八月、孔明は陣中で病に倒れ、そのまま五丈原で没しました。享年五十四。

劉禅(りゅうぜん)から派遣された李福(りふく)に、後事を託すかどうかを問われたとき、孔明はわずかに微笑んで答えた、と『三国志』裴注は伝えます。「私のあとは、蒋琬(しょうえん)。蒋琬のあとは、費禕(ひい)。それ以降のことは、知らぬ」——その先は、もう、口にしなかった。

第3話 · 楊儀と姜維、軍を退かせる

丞相の死は、しばらく、陣のなかでも伏せられました。

実務を任されていた長史・楊儀(ようぎ)と、孔明が末期にもっとも頼った若将・姜維(きょうい)が、ひそかに軍を撤退の体勢に整えていきます。

旗は伏せ、鼓は鳴らさず、夜陰にまぎれて、隊伍を整えて退いていく。

ところが、魏の陣には、五丈原で動きがあるという報せが、すでに届きはじめていました。司馬懿は、慎重に、しかし確実に「孔明が死んだのではないか」と疑い始めます。

司馬懿は、軍を出して追撃を試みた。『漢晋春秋』はこの場面を、後世まで語られる定型句として書きとめます。

楊儀ら、軍を整え反旗、鳴鼓してまさに懿に向かわんとす ——蜀軍は隊伍を整え、旗を反転させ、鼓を打ち鳴らして司馬懿に向かい直そうとした

退いているはずの相手が、こちらに向き直って、整然と布陣する。

旗のひるがえし方も、鼓の鳴らし方も、いつもの孔明の采配と変わらない——司馬懿は、馬を止めました。

「孔明は、まだ生きているのか」

司馬懿は、軍を引いた。蜀軍はそのまま、悠々と斜谷へ退き、孔明の遺骸を漢中まで運び返してから、ようやく喪を発した、と伝わります。

第4話 · 「死せる孔明、生ける仲達を走らす」

司馬懿が後に、退却中の蜀軍の陣営の跡を巡り、その布陣の見事さに感嘆した、と『漢晋春秋』は続けます。

天下の奇才なり ——天下の、たぐいなき才だ

そして、自分が引き返したことを問われると、苦笑して、こう漏らしたと言います。

吾、能く生を料るも、死を料らず」 ——わたしは生きている者の手は読めるが、死んでいる者の手まで読むのは、難しい

関中の民は、この一連の話を、短い俚諺(りげん)に刈り込んで囃しました。

死せる諸葛、生ける仲達を走らす

死んだ諸葛亮が、生きた司馬懿の足を止め、退かせた——という意味です。

慎重を貫いた者の言いぶりとして、それはそれで筋が通っていた。実際、この慎重さがあったからこそ、司馬懿はやがて魏の朝廷で実権を握り、その孫の代に天下を統一して、晋の王朝を開くことになります。

千八百年経って、いまも「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言うとき、亡き丞相の威光だけでなく、その威光を恐れて引いた相手のしたたかさも、同じ場面に並んで残っている——のかもしれません。