「敗軍の将は兵を語らず」。負けた者は、あれこれ言い訳をしない。試合に負けた監督や、選挙に敗れた政治家が、多くを語らずに去るときに引かれる言葉です。

出どころは『史記』。あの背水の陣の、そのあとの場面です。

ただ、『史記』でこの台詞を口にした人は、そのあと黙ってはいませんでした。

第1話 · 千金の捕虜

紀元前 204 年、漢の韓信は、井陘(せいけい)で趙の二十万を破ります。川を背にした、背水の陣です。

戦いの前、趙の側には一人の軍師がいました。広武君(こうぶくん)・李左車(りさしゃ)。韓信の補給路を断つ策を主将に進言しましたが、退けられています。

勝った韓信は、全軍にこう命じました。広武君を殺すな。生け捕りにした者には千金を与える。

やがて縛られた李左車が引き出されてくると、韓信はその縄を解き、東を向いた上座に座らせ、自分は西向きに座って向き合いました。師として仕える席です。

第2話 · 断りの一言

韓信は尋ねます。北の燕を攻め、東の斉を討ちたい。どうすれば功を立てられるか。

李左車は、こう言って辞退しました。

臣聞く、敗軍の将は以て勇を言うべからず、亡国の大夫は以て存を図るべからず(『史記』淮陰侯列伝)

負けた軍の将は、武勇を語れない。滅んだ国の重臣は、国を保つ手立てを考えられない。敗れて捕らえられたいまの私に、大事が測れるはずもありません、と。

原文の言葉は「勇」です。二つの句のどこにも、「兵」の字はありません。のちに同じ場面を書いた『漢書』では二つの句の順が入れ替わり、こちらは「勇を語るべからず」。日本語の「語らず」に近い字は、『漢書』のほうにあります。

しかも冒頭の「臣聞く」は、そう聞いております、という言い方です。李左車は、この句を聞き覚えた言い回しとして引いています。負けた軍の将と滅んだ国の重臣を、射礼の場に入れない者として並べる言い方は、儒教の経典『礼記(らいき)』にも見えます。

第3話 · それから、語った

韓信は引きませんでした。昔の百里奚(ひゃくりけい)を例に、こう説きます。

百里奚は、虞(ぐ)にいたとき虞は滅び、秦に移ると秦は覇者になった。虞で愚かで、秦で賢くなったわけではない。用いられたか、用いられなかったかの違いだ。趙があなたの策を聞いていたら、捕らえられていたのは私のほうだった——。

百里奚その人も、秦に迎えられたとき「亡国の臣に、何をお尋ねになるのか」と一度は断り、それから三日語り続けています。断ってから語る。そういう運びが、すでにあったのです。

重ねて請われて、李左車も語り始めます。最初に置いた前置きが、「智者も千慮に必ず一失あり、愚者も千慮に必ず一得あり」。「千慮の一失」の出どころで、これも「臣聞く」で始まる句です。

中身はこうでした。漢の兵は疲れている。燕の堅い城の下で足止めされれば、長引くばかり。それより兵を休ませ、趙を落ち着かせたうえで、燕に短い書状を一通送ればいい。燕は必ず従う。燕が従えば、斉も風になびく。

韓信はこの策に従って、燕に使者を出します。『史記』によれば、燕は「風になびくように」従いました。斉のほうは、別に送られた漢の使者の説得にいったん応じましたが、韓信はそこを襲い、武力で平らげています。

第4話 · 「兵」になった言葉

では、「兵を語らず」の形は、いつから見えるのか。

中国の古典に見えるのは「勇を言う」「勇を語る」の形で、「兵」の形は見つかっていません。日本で見つかっている早い例は、曲亭馬琴『南総里見八犬伝』の、江戸の天保年間に出た第九輯。捕らわれた将が「敗軍の将には、兵を談ずべからず」と言って口を閉ざします。明治の半ばの本には、もう「常套の慣語」と書かれています。

その「兵」の中身は、辞書によっても違います。『精選版 日本国語大辞典』は武勇、『デジタル大辞泉』は兵法と読みます。1968 年の国会では、ある議員が、負けた将軍が「兵隊がみんな弱かったから負けた」と言ってはいけない、という意味でこの句を引きました。こちらは兵を、兵隊と読んでいます。

句をひっくり返した使い方もあります。2005 年の国会では、経済誌『日経ビジネス』の「敗軍の将、兵を語る」というインタビュー欄の、別々の記事が二度引かれました。負けた側が語る欄の名前です。

「語れない」と断ってから、語る。『史記』のこの場面で、李左車が口にした敗軍の句は、語りだす前の断りの一言でした。