「多々益々弁ず」。仕事は多ければ多いほど、かえって手際よくさばける。転じて、多ければ多いほどありがたい——そんなときに出てくる言葉です。
言ったのは韓信(かんしん)。ただしその場面は、絶頂期ではありませんでした。
第1話 · 王から、侯へ
韓信は、若い頃は食べるにも困り、町のならず者の股をくぐった男でした。それが大将軍に取り立てられ、趙を破り、斉を平らげ、垓下(がいか)では項羽(こうう)を追いつめる。漢の天下は、この人の用兵で決まったといっていい。
その韓信は、天下が決まる前に斉王に立てられ、垓下のあと楚王へ移されます。しかし間もなく謀反の疑いをかけられて捕らえられ、淮陰侯(わいいんこう)に落とされました。一段下げられての、都住まいです。
『史記』は、この頃の韓信をはっきり書きます。皇帝が自分の能力を恐れていることを知っていた。だから病気だと言っては朝廷を欠き、日々怨望(えんぼう)していた——恨みを抱えたまま、日を送っていた。
その韓信が顔を出した日のことです。高祖(こうそ)——劉邦(りゅうほう)がくつろいだ調子で、将軍たちの力量を韓信と品定めしはじめます。あの男はどれくらい、この男はどれくらい。上下の差はついた。
そして皇帝は、自分のことを聞きました。
第2話 · 十万と、多々益々
私ならどれくらいの兵を率いられるか。——陛下は、十万を過ぎません。では君はどうか。——臣は、多々にして益々善きのみ(『史記』淮陰侯列傳)
十万。皇帝への答えとしては、決してうまい数字ではありません。上限を切ってみせたうえで、自分については、多ければ多いほどいい、と言い切った。
兵を率いる才でいえば、当時これ以上の人はいませんでした。事実ではあります。ただ、それを本人が、自分を捕らえた相手の前で言っている。
高祖は笑って、こう返します。
「多々益々善いのなら、どうして私の捕虜になったのか」
からかいのようでいて、刃が入っています。実際、韓信はこの人に捕らえられて、いま侯の身分でここに座っている。
第3話 · 将に、将たり
韓信の答えはこうでした。
陛下は兵を将いるに能わずして、善く将に将たり——陛下不能將兵、而善將將(『史記』淮陰侯列傳)
陛下は兵を率いるのは得意ではない。けれど将軍を率いるのがうまい。だから私は陛下の捕虜になったのです、と。そして、こう続けました。それは天から授かったもので、人の力で身につくものではありません。
ほめているのか、負け惜しみなのか。どちらとも取れる答えです。ただ、兵の数では測れない能力があると、この場でいちばん兵を知っている男が認めてしまった。
兵は十万、二十万と数えられる。数えられないもののほうが上に来る、と言った時点で、この問答は韓信の負けです。しかも負けを認める言い方が、そのまま相手への最上級のほめ言葉になっている。
その数年後、韓信は謀反に通じたとして捕らえられ、長楽宮の鐘室で殺されます。この雑談は、二人が言葉を交わした最後に近い場面でした。
第4話 · 「善」と「弁」
ここでもう一つ。日本語の「多々益々弁ず」は、少し変わった形をしています。『史記』の本文は「多々にして益々善きのみ」。善であって、弁ではありません。
「弁」の出どころは『漢書(かんじょ)』です。同じ問答を載せる韓信伝は、その一句を「多々益々辦ず」と書きます。辦(はん)は、処理する、やってのける、の意味。
日本ではこの字が、早くから「辨」で書かれてきました。室町期の抄物にも、大正の随筆にも、この「辨」で書かれた例が見えます。その辨が、戦後の字体整理で辯・瓣とともに「弁」へまとめられて、いまの形になりました。弁護の弁は辯、花弁の弁は瓣。同じ形に見えて、出どころが違います。
中国でいまも使われるのは『史記』側の「多多益善」のほうです。同じ一つの問答から、二つの字が別々の国に残った。日本語の「弁ず」は、いまでは「多ければ多いほどよい」の意で読まれることも多いのですが、もとをたどれば、来た仕事をさばききる字でした。
多ければ多いほどさばける。そう言った人は、そのさばく力ゆえに恐れられ、さばく場所を取り上げられました。