「白眉(はくび)」という言葉、いま使うのは「数あるなかで、いちばん優れたもの」。「今年の展覧会の白眉」のように、批評でちょっと気取って顔を出す一語です。
でも語源をたどると、これは三国のころの荊州(けいしゅう)に、眉に白い毛がまじった男がいて、村の言い伝えが彼を「いちばん」と呼んだ、それだけの話だったんです。
第1話 · 襄陽宜城、五人兄弟の噂
舞台は、荊州の襄陽(じょうよう)郡宜城(ぎじょう)県。漢水(かんすい)の中流、いまの湖北省です。
そこに、馬(ば)という一族がいました。兄弟が五人。そろって才があると評判で、しかも全員、字(あざな)に「常」の一字を持つ。だから土地の人は、彼らを馬氏の五常と呼びます。
『三国志』蜀書 馬良伝は、続けてこう書きとめます——郷里、これがために諺(ことわざ)を為して曰く、と。
馬氏五常、白眉最良 (馬氏の五常、白眉最も良し)
白眉。白い眉です。字の並びからすると四番目の馬良(ばりょう)、字は季常(きじょう)。その眉に白い毛がまじっていたので、そう呼ばれた——と伝は続けます。
面白いのは、これが朝廷の人物評でも名士の批評でもないこと。郷里の諺——村の井戸端の言い伝えです。誰が言い出したかも分からない噂が、そのまま正史に載った。
第2話 · 荊州に残って、「尊兄」と書く
劉備(りゅうび)が荊州を領すると、馬良は従事(じゅうじ)に取り立てられます。やがて劉備は益州へ攻め込み、諸葛亮(しょかつりょう)も後を追って入蜀。馬良は荊州に残りました。
214 年、益州の要衝・雒城(らくじょう)が落ちたと聞くと、馬良は諸葛亮へ手紙を送りました。書き出しが、これ。
「雒城すでに抜けりと聞く。これ天の祚(さいわい)なり。尊兄、期に応じて世を賛(たす)け……」
尊兄。目上の兄、という呼びかけです。
のちに注をつけた裴松之(はいしょうし)は、ここで手を止めます——兄弟の契りを結んだか、縁つづきだったのだろう、亮のほうが年長だから尊兄と呼んだのだ、と。分からないことは、分からないまま書き添えたわけです。
第3話 · 呉へ、紹介状を頼みに行く
やがて馬良は、使者として呉へ渡ることになりました。出発の前、諸葛亮に頼みます。「どうか私を、孫将軍(孫権)に紹介しておいてください」。
諸葛亮の返事が、そっけない。
「君、試みに自ら文を為(つく)ってみたまえ」
自分で書いてごらん、と。馬良はその場で草稿を起こします。自分を売り込む文を、自分で。
その人は吉士(きっし)、荊楚(けいそ)の令(よ)き者。造次(ぞうじ)の華は少なきも、克(よ)く終わりを全うするの美あり
とっさの弁舌に華はないが、最後までやりとげる良さがある——そう書いて、そのまま持っていった。孫権はこの使者を敬って遇した、と伝は記します。
第4話 · 侍中、武陵の谷へ
章武元年(221 年)、劉備が帝位につくと、馬良は侍中(じちゅう)——皇帝のそば近くに侍る職に就きます。
まもなく劉備は、荊州をめぐって呉へ東征する。馬良の任務は武陵(ぶりょう)へ分け入り、沅水(げんすい)の谷々に住む五渓蛮夷(ごけいばんい)を蜀につけることでした。
この仕事は、書かれているかぎり成功しました。各部族の渠帥(きょすい、首長)はみな蜀の印と称号を受けた、と。
ところが、その頃には本隊が崩れていた。章武二年(222 年)、夷陵(いりょう)で劉備の軍は呉の陸遜(りくそん)の火攻めに遭い、大敗する。馬良も、この敗戦のなかで命を落とします。
馬良伝の末尾には、そっけない一行が置かれています。「良の死する時、年三十六。謖は三十九」——それぞれの享年です。謖、末弟の幼常(ようじょう)こと馬謖(ばしょく)が街亭で敗れ、獄に下るのは六年後のことでした。
劉備は翌年、死の床で諸葛亮に言い残しています。馬謖は言うことが実際より大きい、大任を与えてはならぬ、と。井戸端で五人を並べた村の諺は、案外、いい目をしていた。
「白眉」は日本にも渡ります。菅原道真の『菅家文草』(900 年頃)の「白眉の僧」は、まだ文字どおり眉の白い老僧でした。すぐれたものを指す使い方は室町の五山の詩文にはもう見えていて、広く定着するのは近代の批評文になってから。夏目漱石も『吾輩は猫である』で「歴史小説の中で白眉である」と書いています。
「馬氏の五常、白眉最も良し」——この一句を言い出した人の名前は、正史のどこにも書かれていません。名前の残らなかった誰かが、名前の残った男を「いちばん」と決めたわけです。