「破天荒な人」と言うと、たいてい豪快で、ちょっと手がつけられない人を思い浮かべます。

ところが辞書にある意味は、今まで誰もできなかったことを、初めて成し遂げること。豪快とも大胆とも書いていません。

字を分ければ、天荒を破る。天荒とは、まだ誰も鍬(くわ)を入れていない荒れ地のことです。そしてこの言葉ができたとき、荒れ地呼ばわりされていたのは、州として名の通った土地でした。

第1話 · 毎年、送ってはいた

唐の時代、役人になる道のひとつが科挙でした。ただ、いきなり都の本試験に座れるわけではない。まず州や府が地元の受験者を選び、都へ送り出す。この推薦を「(かい)」、送ることを解送(かいそう)と言います。

長江の中流に、荊州(けいしゅう)——荊南(けいなん)とも呼ばれた、いまの湖北省江陵(こうりょう)のあたり——があります。ここも毎年、きちんと解を送り出していました。

唐の荊州は衣冠の藪沢(そうたく)、毎歳挙人を解送するも、多くは名を成さず——唐荊州衣冠藪澤、每歲解送舉人多不成名(『北夢瑣言』巻四)

衣冠の藪沢とは、役人の家の子弟が草むらのように群れている、ということ。それだけいて、及第者の出ない年が続く。そこで人々は、荊州の解にあだ名をつけます。「天荒解」。荒れ地から来た解、と。

送るほうは、毎年ちゃんと送っているのに。

第2話 · 850 年の名簿に、ひとつ

大中四年、850 年。その年の及第者の名簿に、劉蛻(りゅうぜい)という名前が載りました。荊南の解から出た、ひさしぶりのひとりです。

これを人は「天荒を破った」と言った。もとは称号ではなく、実況みたいな言い方です。

ところが、その劉蛻という人のことが、よく分かりません。生年も没年も伝わらず、正史に列伝も立っていない。まとまった記録は『新唐書』芸文志の一行、「劉蛻 文泉子 十巻」。字(あざな)は復愚(ふくぐ)、咸通(かんつう)年間の中書舎人。それだけ。

あとは、他人の伝記の脇に名前が出るくらい。咸通のはじめ、左拾遺だった劉蛻は、宰相の息子の抜擢に噛みついた。数年後、華陰の県令へ飛ばされています。

第3話 · 七十万銭が、届く

及第のその先は、別の本に載っています。五代の王定保(おうていほ)がまとめた科挙の逸話集『唐摭言(とうせきげん)』巻二。荊南を鎮めていた崔魏公(さいぎこう)——崔鉉(さいげん)のこととされます——が、祝いに「破天荒銭」七十万を贈った、と。

その返書は、十六字だけが引かれて残りました。

五十年来、自(おの)ずから是(こ)れ人の廃するなり。一千里の外、豈(あに)天荒と曰(い)わんや——五十年來、自是人廢。一千里外、豈曰天荒(『唐摭言』巻二・海述解送)

五十年間受からなかったのは、天のせいではなく人の側の事情。千里離れているというだけで、どうして荒れ地などと呼べましょうか。劉蛻は祝われながら、「天荒」というあだ名を、静かに突き返しています。

なお「劉蛻はこの銭を辞退した」という話が日中でよく流れていますが、『唐摭言』の本文に「受けず」の語はありません。あるのは、贈ったことと、この返事だけ。

第4話 · そのとき、崔鉉はどこに

もうひとつ、引っかかることがあります。『旧唐書』の崔鉉伝によれば、崔鉉は大中三年(849 年)に中書侍郎・同平章事(どうへいしょうじ)=宰相になり、そのまま都にいます。荊南節度使として江陵へ赴くのは、ずっと下って咸通のころ。

「崔魏公」と呼ぶこと自体は、おかしくない。後年の肩書で遡って呼ぶのは、この手の本の常です。引っかかるのは「鎮めていた」のほう。ではその年の江陵にいたのは誰なのか——史料をめくっても、はっきりしません。

ずれているのは、史料だけではないようです。文化庁の平成 20 年度(2008 年度)「国語に関する世論調査」は、この言葉の意味そのものを聞いています。辞書どおりの「だれも成し得なかったことをすること」が 16.9 パーセント、いま広く使われている「豪快で大胆な様子」が 64.2 パーセント。本来のほうが、三倍以上の差をつけられていました。

確かなことは、たぶん二つ。ある年、荒れ地と呼ばれた土地の解から、ひとりだけ受かったこと。そしてその人が、そのあだ名を認めなかったこと。

豪快でもなければ、大胆でもない。ただ、初めてだった。