「登竜門」という言葉、いま使うのは「そこを通れば一流への道が開く関門」のこと。新人賞、コンクール、オーディション——狭くて厳しくて、抜ければ景色が変わる場所です。
ところが語源をたどると、門らしい門はどこにも出てきません。出てくるのは黄河の急流と、人づきあいをしない一人の役人でした。
第1話 · 人に、会わない
後漢の李膺(りよう)、字(あざな)は元礼(げんれい)。潁川(えいせん)の人です。
『後漢書』は、この人の性格を二文字で書きます。「簡亢(かんこう)」。そっけなくて、つんと高い。続けて「交接する所無し」——人づきあいをしない。師とも友とも呼べる相手は、同郡の荀淑(じゅんしゅく)と陳寔(ちんしょく)の二人きりだった、と。
それでいて、教わりたい側は集まります。免官で郷里に退いていたころ、講義に来る者は常に千人。荀爽(じゅんそう)——荀淑の子で、のちに三公に至る学者——は、あるとき李膺を訪ね、帰りにその馬車の御者を務めました。家に着くなり、喜んで言ったそうです。「今日はとうとう、李君の御ができた」。
第2話 · 柱を、破る
桓帝(かんてい)の世。宮中の宦官が国政を握っていた時代です。
李膺が司隷校尉(しれいこうい)——都の周辺を監察する役——になったころ、宦官張譲(ちょうじょう)の弟の張朔(ちょうさく)が、野王(やおう)の県令として貪欲と残虐をきわめ、身重の女まで殺していた。李膺の厳しさを聞いて都へ逃げ帰り、兄の屋敷の柱——中が空洞の合柱(ごうちゅう)——に隠れます。
李膺は吏卒を率いて踏みこみ、その柱を破って張朔を引きずり出しました。獄へ送り、供述を取り終えると、そのまま処刑。張譲が帝に泣きつきましたが、帝は「これはお前の弟の罪だろう」と取り合いません。
この日から、宦官たちは息をひそめ、休みの日にも宮中から出なくなった。帝が理由を尋ねると、みな頭を床につけて泣いたそうです。「李校尉が、怖いのです」。
第3話 · 黄河に、竜門という口
『後漢書』は、そのすぐあとにこう書きます。
士に其の容接を被(こうむ)る者有れば、名づけて登竜門と為す
朝廷は乱れ、綱紀はくずれていく。そのなかで李膺ひとりが筋を通していました。だから、迎え入れられて言葉を交わせた士は「竜門を登った」と呼ばれた。試験も賞も関門もありません。会ってもらえた、それだけ。
では、竜門とは何か。唐の李賢(りけん)が注を付けています。魚のたとえだ、と。竜門は黄河の落ちこむ口、いまの山西と陝西の境あたりです。李賢はそこで散逸した辛氏『三秦記』を引きます。水が険しくて魚も鼈(すっぽん)も上れない。江海の大魚が数千も集まるが、上れない。上れば、竜になる。
ここに鯉はいません。鯉が泳いでくるのは別の引用のほうです。『太平広記』が引く同じ『三秦記』には、暮春のころ黄鯉魚がさかのぼって竜になる、とある。日本の鯉のぼりの図柄は、こちらの鯉から来たと言われます。
第4話 · 名簿
166 年。占い師の張成(ちょうせい)が、恩赦の出る日を読んで息子に人を殺させます。李膺は恩赦にも取り合わず、その子を処刑してしまう。張成の弟子が上書します。李膺らは徒党を組んで朝廷を誹謗している——。党錮の禁です。連座、二百余人。翌年に赦されますが、生涯官職につけない条件つき。
169 年、二度目が来ます。今度は死者が出た。逃げるよう勧める郷里の人に、李膺はこう答えます。
事に難を辞せず、罪に刑を逃れず、臣の節なり。吾年已(すで)に六十、死生に命有り、去りて将(は)た安(いず)くにか之(ゆ)かん
自分から獄へ出頭し、拷問の末に死にました。妻子は辺境へ流され、門生(弟子)・故吏(かつての部下)、およびその父兄まで、まとめて禁錮。竜門を登った者の名が、そのまま罰する側の名簿になっていたことになります。
ただし一人、名簿から漏れた男がいます。侍御史の景毅(けいき)。子を李膺の門下に入れていたのに登録がなく、罰を免れた。景毅は自分から上表し、官を辞して郷里へ帰りました。載っていないその名を、わざわざ載せに行ったわけです。
いま「登竜門」と言うとき、私たちは通り抜けた先の景色を思い浮かべます。新人賞を取ったあと、オーディションに受かったあと。けれど最初にこの名で呼ばれた門は、くぐった先に何が待っているのか、誰にも分からない門でした。それでも人は、門の前に並んだんです。