「一字千金」という言葉、いま使うのは、すぐれた詩や文章を讃えるとき。たった一字に千金の値打ちがある——最上級の褒め言葉です。
ところが語源をたどると、これは褒め言葉ではありません。ある権力者が、自分の本を市場の門に掲げて、その上に千金を吊るした。「直せるものなら、直してみろ」という話なんです。
第1話 · 恥ずかしかった、秦の宰相
舞台は戦国時代の末。紀元前 239 年ごろの、秦の都・咸陽(かんよう)です。
当時、諸国では「食客」を養うのが流行っていました。魏の信陵君、楚の春申君、趙の平原君、斉の孟嘗君——のちに戦国四君と呼ばれる四人が、身分の低い者にも頭を下げて賓客を集め、その数を競い合っていた。
これを見ていたのが、秦の相国呂不韋(りょふい)。もとは陽翟(ようてき)の大商人で、人質だった王子に「奇貨居くべし」——掘り出し物だ、買っておこう——と目をつけ、金と策でその王子を王位に就けた男です。その王子に生まれた子が、のちの始皇帝でした。呂不韋は「仲父」と呼ばれ、権勢の頂点にいました。
『史記』は、彼の動機をはっきり書いています。秦はこれほど強いのに、四君に及ばないのが恥ずかしい。だから呂不韋も士を招き、厚遇した。その数、三千人。
第2話 · 二十余万言
集めたはいいが、この三千人に何をさせたか。
呂不韋は、食客ひとりひとりに、自分の知っていることを書かせました。それを集めて編み、八覧・六論・十二紀という構成にまとめる。全部で二十余万言。
政治も、農業も、音楽も、暦も。「天地万物・古今の事を備えた」と称するほどの、百科全書でした。書名は、自分の姓を冠して『呂氏春秋』。
孟嘗君の食客が、鶏の鳴きまねと盗みの腕で主君を救ったのは、これより半世紀ほど前の話。同じ「食客三千人」でも、呂不韋は彼らに本を書かせた。商人あがりの宰相が選んだのは、腕っぷしではなく、文字だったわけです。
第3話 · 市門に吊るした、千金
さて、ここからが問題の場面。
呂不韋は、その『呂氏春秋』を都の市門に掲げました。人の出入りがいちばん多い、市場の門。そして、その上に千金を吊るして、こう布告します。
諸侯の游士賓客にして、能く一字を増損する者有らば、千金を予(あた)えん
一字でも足せる、あるいは削れる者がいれば、この大金をやろう——と。
自信の表明、と読むこともできます。ただ、掲げたのは市場の門。吊るしたのは、千金。そして掲げた本人は、秦の相国です。
そして『史記』は、ここで話を切ります。誰か直したのか。誰も直せなかったのか。司馬遷は、一言も書いていません。次の行は、もう別の事件へ移っている。
第4話 · 四百年後の、注釈者
「誰も直せなかった」と書いたのは、四百年ほど後の人でした。後漢の高誘(こうゆう)。『呂氏春秋』に注をつけた学者です。
ただ、高誘は、そこで筆を止めません。同じ序文で、こう続けます。
誘おもえらく、時の人、能わざるに非ざるなり。けだし相国を憚(はばか)り、その勢いを畏(おそ)れしのみ
できなかったのではない。相国をはばかり、その権勢を恐れただけだ——と。「誰も直せなかった」の出どころが、そのまま「直せないわけがない」の出どころでもあるわけです。
じっさい、南宋の劉克荘(りゅうこくそう)は、『呂氏春秋』のなかに『詩経』の句を「周書に曰く」と取り違えた箇所を見つけて、こう書きました。誰も指摘しなかったのなら、あの懸賞は何だったのか、と。
では、いつ褒め言葉になったのか。六世紀、鍾嶸(しょうこう)という批評家が『詩品』のなかで、作者の分からない古詩十九首を絶賛し、「ほとんど一字千金と謂うべし」と書きます。呂不韋の、およそ七百年後のことでした。
自分の本に値札を吊るした男の言葉が、七百年かけて、他人の詩を讃える言葉になる。主語が、そっくり入れ替わっているんです。