「杜撰」という言葉、いま使うのはだいたい「いい加減で、誤りや手抜きが多いこと」。書類のチェックが甘いときに「杜撰な管理」、計画の詰めが甘いときに「杜撰な計画」——だいたい、批判の語として顔を出す一語です。
でも語源をたどると、これは千年近く前の北宋の都で、歌の豪と讃えられたひとりの詩人の、ちょっと自由すぎる詩から生まれた言葉だったんです。
第1話 · 「三豪」の時代
舞台は十一世紀のなかごろ、北宋・仁宗の治世。都・汴京(べんけい、いまの開封)を中心に、新しい詩文を模索する文人たちが、ぞくぞく顔を揃えていた時代です。
のちに「唐宋八大家」と並べられる欧陽脩(おうようしゅう、字 永叔)がいて、酒豪としても名高い詩人・石延年(せきえんねん、字 曼卿)がいた。そこに学者の石介(せきかい、字 守道)が現れ、当代の文人を讃える 三豪詩 を詠みます。
その一首に挙げられたのが、欧陽脩・石延年と並んで、もうひとり——歴陽(れきよう、いまの安徽省和県)の人、杜黙(ともく、字 師雄)でした。
石介は、三人を別々の「豪」に振り分けました。欧陽脩は文章の豪、石延年は詩の豪。そして杜黙は、歌豪。歌うように調子のいい詩を作る者、というわけです。
第2話 · 「歌豪」の、ひとつの癖
歌豪と呼ばれただけあって、杜黙の詩は調子が立っていて、声に出して読むと気持ちのよい一篇が多かったといいます。
ただ、そこにはひとつ、当時の文壇から見ると見過ごせない癖がありました。
漢詩には、平仄や押韻や対句——細かな決まりがあります。総じて 律 と呼ばれる、詩の骨格を整えるための規則。唐の時代以来、これにどれだけ忠実に作れるかが、詩人の腕の見せどころのひとつでした。
ところが杜黙は、しばしばこの律を踏み外しました。歌うように調子をつけながら、平仄が合わない。押韻が緩い。技巧の側から見ると、明らかに外れている。
石介は、それも含めて「歌豪」と肯定したのかもしれません。が、技巧重視の人々から見ると、杜黙の詩は奔放にすぎた——讃辞と批評の、ぎりぎりのところに立った詩人だったわけです。
第3話 · 南宋の文人、書き留める
時代は下って、十二世紀。南宋の文人・王楙(おうぼう)が、長年積み上げた読書の覚え書きを、考証随筆『野客叢書』として編みます。
巻二十の「杜撰」の条に、王楙はこう書きつけました。
杜黙、詩を為(つく)るに、律に合わざること多し。故に事の格に合わざる者を、杜撰と為(い)う——杜默為詩、多不合律。故言事不合格者為杜撰
——杜黙の作る詩は、律に合わぬことが多い。だから物事の格に外れたものを「杜撰」というのだ、と。
短い解説です。が、考証随筆としては手堅い記述で、漢字文化圏では以後、この王楙の説が「杜撰」の語源として広く引かれていきました。「杜」は杜黙の杜、「撰」は書き著すこと——杜の手から出たあれこれの詩、それがそのまま「規則に合わないもの」の名になったわけです。
第4話 · 千年経って、いまの日本語へ
「杜撰」の語源には、ほかにも諸説があります。道書を多く著した晩唐の杜光庭(とこうてい)に由来するという説などが辞書類には並びますが、もっとも知られ、現代の辞書でもまず採られるのが、王楙が記録した杜黙由来の説です。
「杜撰」は海を渡って日本にも伝わり、やがて「ずさん」と読み下されて、現代の日本語のなかにすっかり定着しました。
「ずさんな計画」「ずさんな管理」と口にするとき、その後ろには、自分の調子で歌うように詩を綴り、律を時に踏み外した北宋の歌豪が、ふっと立っている——のかもしれません。
讃えられながら、外れていた人。その人のあだ名が、千年経って、わたしたちの日常の言葉に残り続けているわけです。