「一網打尽」という言葉、いま使うのは事件のニュースでしょう。「詐欺グループを一網打尽」——容疑者を残らずまとめて捕まえる、小気味よい四字熟語です。

字を見れば、網を一度打って魚を残らず捕り尽くす。もとは漁の光景でしょう。ところが網にかかったのは、魚ではありませんでした。北宋の官界で、酒宴に集まった若い俊英たちが、一夜でまとめてすくい取られた——その生々しい政争の記録なんです。

第1話 · 紙くずを売って、宴を張る

舞台は1044年、北宋の都・開封(かいほう)。ここに進奏院(しんそういん)という役所がありました。地方と朝廷のあいだで文書を取り次ぐ連絡係です。その長官は、蘇舜欽(そしゅんきん)——三十代なかばの、当代きっての詩文の才子でした。

進奏院では毎年秋、賽神(さいじん)という神への感謝祭が開かれます。慣例で、たまった拆封紙(たくふうし)——使い終えた公文書の反故紙(ほごがみ)を売り、その金で酒肴をととのえます。蘇舜欽はこれに乗って宴を盛大にし、自腹も足して館閣(かんかく)の同僚たちを招き、客から会費も集めました。酒がまわると下役をさがらせ、両軍の妓女(ぎじょ)まで呼びよせます。

第2話 · 席を断られた男

ここに、招かれざる客がいました。李定(りてい)。会費を出すから同席させてくれ、と申し出たのに、蘇舜欽は断ってしまう。

面目をつぶされた李定は、恨みを飲み込みます。そして都じゅうに宴の噂をばらまいた。公の金まがいで妓女と遊び呆けている、と。

たかが宴会の悪口です。けれど、間が悪すぎました。このころ朝廷では、范仲淹(はんちゅうえん)らの政治改革——慶暦(けいれき)の改革が、保守派の猛反発を浴びていたのです。蘇舜欽は、その范仲淹に引き立てられ、しかも宰相・杜衍(とえん)の娘婿。改革派を叩きたい側には、これ以上ない獲物でした。

第3話 · いささか、相公のために

反改革派の急先鋒は、官吏を弾劾する監察機関——御史台(ぎょしだい)でした。その長官、御史中丞(ぎょしちゅうじょう)の王拱辰(おうきょうしん)が、この一件に目をつけます。

配下の御史劉元瑜(りゅうげんゆ)が、弾劾の上奏を放ちました。罪状は監主自盗(かんしゅじとう)——管理する者が公物を盗んだ、という名目です。反故紙を売った金が、そう読み替えられた。

裁きは速く、苛烈でした。蘇舜欽は削籍為民(さくせきいみん)、官籍を削られてただの民に落とされます。宴の同席者もことごとく左遷・追放。詩人の梅堯臣(ばいぎょうしん)まで飛ばされ、鼎(かなえ)をひっくり返して皆を巻き添えにした客になぞらえ、李定を暗に責める詩を残しました。

俊英が一挙に消え、官界に穴があく。上奏した劉元瑜は、時の宰相に会うと、こう言ってのけました。

劉、宰相に見(まみ)えて曰く、聊(いささ)か相公(しょうこう)の為に一網打尽す——魏泰『東軒筆録』巻四

いささか宰相どののために、一網打尽にしておきました——。一網打尽の四字が、ここに書きとめられます。

第4話 · 網を、挙げて

蘇舜欽はその後、湖州(こしゅう)の長史に任じられますが、失意のまま四十あまりで世を去りました。

友人だった欧陽脩(おうようしゅう)は、遺(のこ)された文集に序を寄せ、あの宴の顛末にこう触れています。

一時の俊彦(しゅんげん)、網を挙げて尽きぬ——『東軒筆録』が伝える欧陽脩の序

その時代のえりすぐりの才子たちが、網を一度あげただけで根こそぎさらわれた。同じ「網」でも、劉元瑜の得意げな報告とは、まるで温度が違います。

狙いどおり、蘇舜欽を欠いた改革派は勢いを失い、范仲淹も杜衍も翌年には都を追われます。慶暦の改革は、こうして幕を閉じました。

もっとも、鮮やかに「打尽」してみせた側も、ただでは済みません。網を仕掛けた王拱辰は、私憤で人材を葬ったと世間の指弾を浴び、評判に長く傷を残しました。

——「一網打尽」。魚を一匹残らず、という痛快な響きの裏には、反故紙一枚から才子の群れをすくい取った、後味の悪い一夜が沈んでいる。そう思うと、この四字は少しだけ、違って聞こえてきます。