「革命」という言葉、いま使うのはフランス革命、産業革命、あるいは「業界に革命を起こす」。古い体制を下からひっくり返す、勢いのある一語です。
でも漢字を見れば、「命を革(あらた)める」。もとの二文字が指したのは、下からの反乱ではありません。天が王朝の首をすげ替える——上からの人事異動でした。
第1話 · 天が、命を革める
紀元前の中国。夏の桀王(けつおう)は殷の湯王(とうおう)に、殷の紂王(ちゅうおう)は周の武王(ぶおう)に討たれました。臣が君を殺す、本来なら大罪です。
ところが『易経』の革卦(かくか)に添えられた注釈——彖伝(たんでん)は、こう言い切る。
天地革(あらた)まりて四時(しじ)成る。湯武(とうぶ)命を革め、天に順(したが)ひて人に応ず——『易経』革卦・彖伝
四季がめぐるように、天が命(めい)を革めたのだ、と。臣下の反逆ではなく、天の意志。『孟子』はさらに踏み込みます。仁義を損なった紂は、もはや君ではない。ただの「一夫」だ、と。
天が命を革め、王朝の姓が入れ替わる。易姓革命——それが、もとの「革命」でした。
第2話 · 訳語にされる
幕末から明治の、翻訳机。西洋から revolution という語が流れ込んできます。王を倒し、身分を壊し、下から国のかたちを組み替える。天命など、どこにも出てこない出来事です。
これに当てられたのが「革命」でした。福沢諭吉『西洋事情』の「兵乱に由て俄に政府の革まるを革命と云ひ」を、『日本国語大辞典』は revolution の意味で使われた最初の例に採り、訳語を選んだのも福沢だろうとします。ただし辞典自身が「と考えられている」と留保しています。誰が最初に当てたのかは、まだ分かっていません。
天命の言葉が、天命のない転覆を、背負わされた。
第3話 · 神戸の新聞
有名な逸話があります。1895年(明治28年)11月上旬、神戸港。広州の蜂起に失敗した孫文(そんぶん)の一行が上陸し、同行の陳少白(ちんしょうはく)が岸で新聞を買う。そこにこうあった——「支那革命党首領孫逸仙(そんいっせん)」。孫文、膝を打つ。「革命の二字は『易経』より出づ。意義、甚だ佳(よ)し」。自分たちのしているのは、ただの造反だ——陳少白は、そう思っていたと語ります。
——ところが、です。
神戸大学の安井三吉(やすいさんきち)が当時の紙面をあたりました。『大阪朝日』『大阪毎日』『神戸又新日報(こうべゆうしんにっぽう)』。孫文の上陸前後に、その記事は見当たらない。
代わりに出てきたのは、その日の『神戸又新日報』の別の見出し——「広東暴徒巨魁の履歴及計画」。首謀者の名は「范某(はんぼう)」。神戸の新聞は、港に降りた男が誰なのか知らなかったのです。
第4話 · 二年半、記憶がすべった
では、陳少白が見た新聞は何か。安井の推測はこうです。二年半後の1898年5月、『九州日報』で宮崎滔天(みやざきとうてん)が孫文のロンドン遭難記を訳しはじめる。標題は——「清国革命党主領孫逸仙 幽囚録」。嘘ではなく、記憶がすべったのではないか。
孫文自身の『建国方略』にも遭難記にも、神戸の新聞は出ません。陳少白が語ったのも「中国革命党孫逸仙」の字を見た、まで。「支那」も「首領」も、『易経』のせりふも、その場にいなかった馮自由(ふうじゆう)が足したもの。話は、あとから育つ。
1902年、横浜。亡命中の梁啓超(りょうけいちょう)が『新民叢報』で噛みつきます。
日本人 之(これ)を訳して革命と曰(い)ふ。「革命」の二字、確訳(かくやく)に非ざるなり——梁啓超「釈革」
あれは易姓、王朝の姓が変わるだけ。根こそぎひっくり返す revolution とは違う、と。梁啓超は「変革」を提案。定着しませんでした。
天が下す言葉だった「革命」は、天の要らない言葉になって、そのまま残りました。いまでは産業にも、技術にも、髪型にも気軽に起こされている——四季のめぐりに重ねられたころの記憶を、少しだけ引きずったまま。