「邯鄲の夢(かんたんのゆめ)」という言葉、いま使うのは「人の世の栄華のはかなさ」のたとえ。出世も富も、ふり返れば一炊の夢——人生のあっけなさを、しみじみ言うときの一語です。

でも語源をたどると、これは唐の時代の中国で、貧しい若者が宿屋で借りた一つの枕と、その枕が見せた、まるごと一生分の夢の話なんです。

第1話 · 邯鄲の宿で

唐の開元年間、趙のむかしの都・邯鄲(かんたん)の宿屋。神仙の術を得た道士・呂翁(りょおう)が一息ついていると、田畑へ向かう途中の貧しい若者・盧生(ろせい)が立ち寄りました。

盧生は、うだつの上がらない我が身を、くどくどと嘆きます。呂翁は、ふところから一つの枕を取り出して、こう言います。「これに眠れば、おまえの望みは思いのままになるよ」と。

第2話 · 枕の中の一生

宿の主人が黍(きび)を蒸しはじめたころ、盧生は枕に頭をのせ、うとうとと眠りに落ちます。

夢の中で、盧生は名家の娘に婿入りし、科挙に及第、とんとん拍子に出世して、ついには宰相にまで上りつめる。讒言(ざんげん)にあって左遷され、死を覚悟する淵も味わうが、やがて返り咲く。富貴と大勢の子や孫に囲まれて、八十余年の長い一生を生き抜き、満ち足りて世を去った——

第3話 · 黍は、まだ炊けていない

はっと、目が覚めます。

盧生は、もとの宿に寝ころんだまま。傍らには、さっきの呂翁。そして——宿の主人が蒸していた黍は、まだ炊き上がってもいなかった

主人の蒸す黍、未だ熟せず——主人蒸黍未熟(『枕中記』)

宰相まで上りつめ、栄華と挫折を味わい尽くした、あの長い一生。それはぜんぶ、飯が炊けるほんのわずかな間に見た、夢だったのです。

第4話 · 呂翁か、呂洞賓か

盧生はしばし呆然とし、やがて悟ります。富貴も栄達も、得ることと失うこと、生と死——そのすべての味を、いま夢のなかで知り尽くした、と。彼は呂翁に深く礼を述べ、静かに去っていきました。

この物語を書いたのは、唐の沈既済(しんきせい)。炊いていた穀物にちなんで「黄粱(こうりょう)一炊の夢」とも、舞台の地名から「邯鄲の枕」とも呼ばれます。

ひとつ補足を。枕を授けた道士は、原典では「呂翁」という、名もなき老人でした。ところが後の世の芝居では、これが有名な仙人・呂洞賓(りょどうひん)に置き換えられます。だから「邯鄲の夢の道士は呂洞賓」という像も広まっていますが、おおもとの呂翁とは、本来べつの人なのです。

炊きかけの飯が教えてくれる、一生の長さ。あなたのこれまでの歳月も、どこか高いところから見れば、一炊の夢——なんて言うと、少し身もふたもないでしょうか。