「刮目して見よ」。目を見開いてよく見よ、という意味で使います。演説や書評で見かける、少し古めかしい言い回しです。

この「刮」、実はかなり物騒な字です。刀でこそげ落とすという意味。目をこするどころではありません。垢を削り落としてから見ろ、というくらいの強さがある。

そんな言葉を残したのは、学者ではありませんでした。大人になるまで、書物をほとんど読まなかった武将です。

第1話 · 博士になれとは言っていない

三世紀のはじめ、呉。呂蒙(りょもう)という将がいました。貧しい家に生まれ、十いくつで姉の夫の軍に紛れ込み、戦場で叩き上げた人です。功はあがる。ただ、書物のほうはまるで学んでこなかった。大事を申し上げるときも口で述べて、人に書き取らせていたといいます。

その呂蒙に、主君の孫権が言います。もう任される立場なのだから、学問をしなさい、と。呂蒙は断ります——軍務が多くて、本を読む暇などありません。

孫権の返しが、いい。

わたしはおまえに、経書を修めて博士になれと言っているのではない。ざっと目を通して、昔あったことを知っておけと言うだけだ——孤豈欲卿治經爲博士邪、但當令渉獵見往事耳(『江表伝』)

忙しいと言うが、自分ほど忙しい者がいるか、とも続けます。光武帝は戦の合間も書物を手から離さなかった。曹操でさえ老いてなお学ぶと言っている。おまえだけができない道理はない、と。

呂蒙は、読みはじめました。

第2話 · 呉下の阿蒙

数年後。魯粛(ろしゅく)が、任地へ向かう途中で呂蒙の陣に立ち寄ります。周瑜の後を継いで、呉の軍を預かることになった人です。

魯粛にしてみれば、通りすがりの表敬だったのでしょう。かつての呂蒙は、話の合う相手ではなかったのでしょう。のちに魯粛の口から出るのが「呉下の阿蒙」——呉にいた頃の、蒙ちゃん。親しみと、少しの見下しがまざった呼び方です。

ところが、話しはじめると議論が返ってくる。それも、こちらが押されるような中身で返ってくる。魯粛は驚いて、呂蒙の背中を叩いて言いました。

わたしはきみには武略があるだけだと思っていた。いまや学識は広く、もはや呉下の阿蒙ではない——吾謂大弟但有武略耳、至於今者、學識英博、非復吳下阿蒙(『江表伝』)

第3話 · 三日、会わなければ

その言葉に、呂蒙が返します。

士たる者、別れて三日も経てば、目を削って見直してもらわねばなりません——士別三日、即更刮目相待(『江表伝』)

有名な一句です。ただ、よく読むと向きが逆になっている。阿蒙ではないと言われた当の呂蒙が、自分について言っているのです。あなたの見方が古い、とも取れるし、三日あれば人は変わってしまうものだ、という一般論とも取れる。

いずれにせよ、他人を叱咤する言葉ではありませんでした。自分は変わり続ける前提で、そちらの目のほうを更新しておいてくれ、という宣言です。日本語では、この向きだけがひっくり返りました。

第4話 · 母に挨拶して、友になる

場面には続きがあります。魯粛は呂蒙の母君に挨拶し、友の交わりを結んで別れた。表敬のつもりで寄った相手の家族に頭を下げて帰るのですから、評価の改め方も徹底しています。もっとも正史の本文では、これは呂蒙が関羽への策を授けた場面の続きとして置かれていて、刮目のやりとりとは離れている。この二つをひと続きに並べたのは、ずっと後の『資治通鑑』でした。

呂蒙はその後、関羽の守る荊州を奪います。呉の戦略を大きく動かした一手で、その計略の緻密さは、書を読まなかった頃の彼からは出てこなかったと言われます。

ちなみに、この逸話は正史の本文ではなく、西晋の虞溥が編んだ『江表伝』に載るものです。呂蒙が死んでから百年ほど後の書物。それを裴松之が注に引き入れたのが、さらに百年あまり後。三日で人は変わると言った男の言葉が、二百年をかけて書き留められている。

削ってでも見直せ、と言われているのは、たぶん私たちのほうです。