鶏肋と書いて、けいろく。鶏のあばら骨のことです。

肉はほとんどついていないが、捨てるには惜しい。そこから、大して役には立たないが手放しがたいものを指します。

出どころは、曹操が陣中で出したたった二字の令。そして、それを読み解いた男が、そのせいで殺される——というのが、よく知られた筋書きです。

ところが、その筋書きは史実ではありません。

第1話 · 二字だけの、令

建安二十四年、西暦にして 219 年。魏王となっていた曹操は、漢中にいました。

相手は劉備。険しい地形に拠って守りを固め、攻めても進めない。かといって守り続けても得るものがない。進むか退くか、決めかねていたわけです。

そこへ出された令が、これでした。鶏肋。

幕僚たちは意味が取れません。二字きりで、説明はない。ところが主簿(しゅぼ)の楊修(ようしゅう)だけが、さっさと荷造りを始めます。どうして分かったのか、と驚く人々に、楊修はこう答えました。

夫れ鶏肋は、これを棄つるは惜しむべきがごとく、これを食らうも得るところなし。以て漢中に比す。王の還らんと欲するを知るなり(『三国志』魏書・武帝紀 裴松之注 引『九州春秋』)

捨てるには惜しいようでいて、食べても得るものがない。それを漢中にたとえたのだ。だから王は引き揚げるつもりなのだ、と。

果たして、その年の五月。曹操は軍を引いて長安へ帰ります。

第2話 · そして、殺される

この楊修は、その年のうちに処刑されます。令の意図を先読みしたから殺された——人の心を読みすぎる部下は危険だ、という教訓つきで語られる場面です。

けれども、正史はそう書いていません。

陳寿が『三国志』の本文に記す理由は三つ。後継争いの火種を断ちたかったこと。才策がありすぎたこと。そして袁術の甥だったことです。鶏肋の二字は出てきません。

『後漢書』はさらに別の一件を挙げます。曹操の質問を先回りして答えを何通りも書き置き、留守番に順を追って出させていたのが露見した——これより修を忌む、と。

時期も合いません。漢中から引き揚げたのが五月。楊修が殺されたのは、同じ年の秋です。数か月が空いている。

そして何より、当人がそう思っていませんでした。死に臨んだ楊修は旧友に、死ぬのが遅すぎたくらいだと言ったと伝えられます。その意は、後継を争った曹植に連座したためだ——と、記録のほうがわざわざ補足しています。

第3話 · 物語が、つないだ

では、鶏肋と死をひと続きの場面にしたのは誰か。事件から千年以上のちに書かれた小説、『三国志演義』の第七十二回です。

小説の曹操は、料理番が運んできた鶏のスープの椀に鶏肋が浮いているのを見て、物思いに沈みます。そこへ夏侯惇が今夜の合言葉を尋ねに来る。口をついて出たのが「鶏肋、鶏肋」。それを聞いた楊修が荷造りを命じ、報告を受けた曹操は激怒して、その場で斬らせます。

椀も、合言葉も、即時の処刑も、すべて小説の創作です。史書の側にあるのは「令」(『後漢書』では「教」)、つまり文書の命令でした。

面白いのはここからで、演義は同じ回の中で、自分の作った因果を打ち消しています。

斬らせたすぐあとに、楊修がそれまで曹操の気に障ってきた逸話がいくつも並び、地の文はこう結びます。このときすでに修を殺す心があり、軍心を惑わしたという罪を借りてこれを殺した、と。口実だ、と作者自身が書いているわけです。そのうえ「後の人の詩」として、こんな一首まで添えてある。

身死するは才に誤らるるがゆえ、退兵を欲するに関するにあらず(『三国志演義』第七十二回)

死んだのは才のせいであって、撤退の件とは関係がない。

日本で語られる「鶏肋のせいで殺された楊修」は、物語の作者が「それは口実だ」と書き添えているのに、その一文だけが読み飛ばされて広まった姿でした。

第4話 · 惜しまれたのは、どちら

辞書が拾う日本語の例でいちばん古いのは、『太平記』巻第十四。足利尊氏が新田義貞を訴えたとして載る、建武二年(1335 年)の奏状の「鶏肋を忿(いか)るの貪心あり」で、値打ちのないものに目の色を変える強欲さだ、という罵りでした。

六百年たつと、語気は変わります。森鷗外は考証の余りを「次に鶏肋として存じて置きたい一話」と書き、種田山頭火は句稿に「鶏肋抄」と題をつけた。自分の仕事を笑ってみせる語になったわけです。

最後にもう一つ。

曹操の二字と楊修の答えを、いま確かめられるなかで、いちばん早く書き留めていたのは、『九州春秋』という後漢末を記した歴史書でした。西晋の司馬彪が編み、九巻あったと記録されています。

その本は、散逸しました。いまこの本の文章として読めるのは、裴松之の注などに引き写された断片だけです。

捨てるには惜しい、と言った台詞のほうが残って、それをいちばん早く書き留めた本のほうが、まるごと捨てられました。