「満(まん)を持(じ)して登場」。準備を十分に整えて、いよいよ世に出ることです。新製品、新曲、秘密兵器。晴れがましい場面で使う言葉です。
では、満とは何が満ちているのか。答えは、弓です。弦をいっぱいに引き絞った状態を、満といいました。持すは、それを保つこと。
ところが古い書物をたどると、引き絞られた弓は、なかなか放たれません。
第1話 · 四千騎と、四万騎
紀元前 121 年、漢の武帝の時代。将軍の李広(りこう)は四千騎を率いて、北の辺境から匈奴(きょうど)の地へ出ました。別の道を、張騫(ちょうけん)の一万騎が進んでいます。
数百里進んだところで、匈奴の左賢王(さけんおう)が四万騎で李広を囲みました。兵はみな怯えます。
李広はまず、息子の李敢(りかん)を敵の中へ走らせました。李敢は数十騎で匈奴の騎兵のただなかを突き抜け、その左右へ抜けて駆け戻ると、こう報告します。胡虜(こりょ)は与(くみ)し易きのみ——たいした相手ではありません。兵たちは、ようやく落ち着きました。
李広は円陣を組ませ、外へ向けて構えさせます。匈奴は猛烈に攻めかかり、矢が雨のように降りました。漢の兵は半分以上が死に、漢の矢は、尽きかけていました。
第2話 · 満を持して、発するなかれ
そこで李広は、こう命じます。
広、乃ち士をして満を持して発する毋(な)からしむ(『史記』李将軍列伝)
兵には、弓を引き絞ったまま構えさせ、放たせない。そのうえで李広自身が大きな弩(いしゆみ)を取り、敵の副将を狙って数人を射殺しました。匈奴の囲みは、少しずつ緩んでいきます。
矢が尽きかけていれば、一本もむだにはできません。そして引き絞ったまま構えている弓は、敵から見れば、いつ放たれるかわからない弓です。
もともと李広は、敵が数十歩の内に入り、当たると見きわめるまでは射ない人だった、と同じ列伝は書いています。
日が暮れるころ、兵たちは血の気を失っていました。李広だけは、平然としていたといいます。翌日も戦いは続き、ようやく張騫の軍が着いて、匈奴は囲みを解きました。遅れた張騫は死罪とされ、金を納めて死を免れ、庶人に落とされます。李広の軍は、功と損害が相殺されて、賞はありませんでした。
第3話 · 放たずに構える弓
『史記』で、弓を引き絞ったまま構える「持満」が出てくるのは、この場面を含めて四か所、場面にすると三つ。どれも匈奴と向き合った場面です。
紀元前 200 年、漢の高祖は白登山(はくとうざん)で匈奴に七日間囲まれました。囲みの一角が開いたとき、高祖は兵に弓を引き絞らせ、矢をつがえて外へ向けさせたまま、そこを抜け出しています。御者だった夏侯嬰(かこうえい)の伝にも、弩を引き絞って外へ向けたまま脱出した、と同じ場面が出てきます。
紀元前 158 年には、将軍の周亜夫(しゅうあふ)が、匈奴に備えて細柳(さいりゅう)という地に陣を敷きました。文帝がみずから軍を慰問に来ると、兵は鎧をまとい、刃を研ぎ、弓と弩を引き絞って構えている。天子の先触れさえ門を通してもらえず、門を守る都尉(とい)はこう答えました。軍中では将軍の命令を聞く、天子の詔は聞かない。
『故事成語を知る辞典』がこの言葉の由来に挙げるのは、『史記』のこの場面です。『日本国語大辞典』も、同じ記事を載せる『漢書』の周亜夫伝を挙げています。
李広の陣も含めた三つの場面の、どれにも、兵が引き絞った弓が放たれたとは書かれていません。李広の陣で射たと書かれているのは、李広が自分で取った弩です。満を持すとは、いつでも放てる形で、放たずにいることでした。
第4話 · 放たず、から、登場へ
『日本国語大辞典』が日本の用例としていちばん早く挙げるのは、江戸後期に頼山陽が漢文で書いた『日本外史』です。慶長の役の海戦で、朝鮮の兵が大きな船の上に並び、弓を張り満を持して加藤嘉明(かとうよしあき)を狙う。嘉明が刀を抜いて飛び移ると、敵、敢えて発せず。ここでも弓は放たれませんでした。
昭和の国会の議論でも、多いのは「満を持しておる」「満を持して待っておる」「満を持して放たず」のような形です。構えたまま、待つ。
国会の会議録に限っていえば、「満を持して登場」がはじめて見えるのは 1979 年です。新しく就任した大臣を、期待を込めてそう呼んでいます。いまでは新製品も新曲も、満を持して世に出てきます。
放たずにいることを言った言葉が、いまは放つ瞬間に添えて使われています。李広の陣では、それは残り少ない矢で持ちこたえるための構えだったのでしょう。