「情けは人の為ならず」。人に情けをかけておけば、巡り巡って自分に返ってくる、という意味です。情けは、思いやりや、あわれみのこと。
「情けをかけるのは、その人のためにならない」と取るのは誤り——『日本国語大辞典』もそう注記し、国語の問題の定番にもなっています。文化庁の世論調査では、平成 12 年度、22 年度、令和 4 年度の三回とも、どちらの意味だと思うかの答えがほぼ半々に割れました。
けれど、この「誤り」とされる意味、思われているほど新しくはありません。
第1話 · 「ならず」の正体
まず文法から。「為ならず」は、「ため」に断定の「なり」が付き、それを「ず」で打ち消した形です。意味は人のためではない。人のためではなく、巡り巡って自分のためになる、ということです。辞書によっては、相手のためになるだけでなく自分にも返ってくる、と説明しています。
取り違えは、この「なり」を、動詞の「なる」と聞くところで起きます。「ためになる」を打ち消せば「ためにならない」。いまの耳には、こちらのほうが自然に聞こえます。
江戸前期のことわざ集『世話尽(せわづくし)』(1656 年)には、「情は人の為ならず身にまはる」と、うしろに答えまで書き添えた形が載っています。人のためではない、我が身に回ってくるのだ、と。
第2話 · 返ってきた先
『日本国語大辞典』が初出に挙げるのは、十四世紀の『太平記』です。高師直(こうのもろなお)の鎧を部下の上山が着ようとして止められると、師直は止めた者を叱り、上山に鎧を与えた。上山はのちに師直の名を名乗り、身代わりに討ち死にする。語り手は、「情は人の為ならずとは、加様(かよう)の事をぞ申すべき」と結びます。
ところが、それより古いとみられる例があります。江戸の刊本以来伝わる本文では、鎌倉時代、1283 年に成った仏教説話集『沙石集(しゃせきしゅう)』に、この言葉が見えます。
登場するのは、御成敗式目を定めた鎌倉幕府の執権・北条泰時。屋敷の築地(ついじ)や堀の普請を、国々の人夫を煩わせるからと断った人として語られます。その話は、こう結ばれます。
かかりし人にて、子孫いよいよ繁昌せり。情は人のためならず(『沙石集』巻三)
返った先として語られるのは、子孫の繁昌でした。
第3話 · 返ってくるのは
返ってくるのは、よいことだけではありません。
能の『葵上(あおいのうえ)』には、光源氏の正妻・葵上に取りつく六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の生霊が出てきます。祭りの見物の場所争いで、葵上の一行に車を押しのけられ、恥をかかされた人です。その生霊が、こう言います。
思ひ知らずや世の中の、情は人の為ならず、我人の為つらければ、……必ず身にも報ふなり(謡曲『葵上』)
思い知らないのか。人につらく当たれば、それは必ず我が身にも報いとなる——。ここでは、この言葉は脅しとして使われています。
『太平記』にも、降参した者を斬った六波羅の武士たちについて、語り手がこの言葉を引き、武運もたちまち尽きた、と述べる段があります。
第4話 · 明治の辞書
1989 年の国会で、お年玉付き年賀はがきの寄付金をめぐる質問の前置きに、ある議員がこう話しています。この言葉の最近の若い人たちの解釈は、古来の解釈から全然変わって、情けをかけるとその人のためにならない、という意味になってきているようだ、と。
では、その意味は本当に新しいのか。
明治 38 年(1905 年)の『作文新辞林』という辞書の「なさけはひとのためならず」の項は、こう説明しています。若い青年などを愛情で甘やかすのは、「却(かえっ)て身の為めにならざるをいふ」。「身」は、甘やかされた本人のことです。
情けをかけて甘やかすな——いま誤用とされている、ほぼそのままの意味です。その発言の八十年あまり前の辞書に、もう書かれていました。
おもしろいのは、同じ項目の用例です。そこに引かれているのは『沙石集』の「子孫いよいよ繁昌せり、情は人の為ならず」。語釈は誤用とされる側、用例は『沙石集』の側。百二十年前の辞書の一項目の中で、二つの意味は、もう並んでいました。