「お彼岸」という言葉、いま使うのは春と秋の墓参りの時期です。お墓を掃除して、花を手向け、ぼたもちやおはぎを供える。
でも「彼岸」の二文字を、あらためて見てみると——「彼(か)の岸」。向こう岸、です。こちらではない、遠い岸。じつはこれ、仏教が理想として掲げた「渡り着くべき対岸」の呼び名でした。しかもこの春秋の行事、探すとインドにも中国にもなく、日本にしかありません。
第1話 · 川の、向こう岸
まず、もとの意味から。
「彼岸」は、梵語(サンスクリット)のパーラミター——漢字を当てて波羅蜜多(はらみた)——を訳した言葉です。これを漢訳すると「到彼岸(とうひがん)」、彼岸に到(いた)る。その下の二字だけを取り出したのが、いまの「彼岸」です。
思い浮かべてほしいのは、一本の川。手前の岸に立つのが、私たち。煩悩(ぼんのう)に足を取られた、こちら側の岸を「此岸(しがん)」と言います。川を渡りきった向こう、迷いの消えた悟りの岸が「彼岸」。此岸から彼岸へ渡る——それが、もとの「彼岸」の指したものでした。
ちなみにパーラミターの原義は、「彼岸に到る」とする読みのほかに、「完成」「(徳の)極み」とする読みもあって、じつは定まっていません。
第2話 · 日が、真西に沈む
では、なぜ春と秋なのか。
鍵は、太陽の沈む方角でした。仏教では、阿弥陀仏(あみだぶつ)の極楽浄土は、はるか西の彼方にあると考えます。春分と秋分の日、太陽は真東から昇り、真西に沈む。西へ落ちる日を拝めば、その先の浄土をまっすぐ思い描ける——年に二度きりの日だったのです。
沈む日に向かって心を凝らす、この観法を「日想観(にっそうかん)」と呼びます。『観無量寿経』が説く、極楽を思い描くための、いちばん最初の作法です。
正坐西向し、日を諦観(ていかん)せよ。……日の没せんと欲するを見れば、状(かたち)懸鼓(けんこ)の如し 西を向いて坐り、沈む日をじっと観る。日が沈みかけるさまは、懸(か)けた太鼓のよう。(『観無量寿経』日想観)
真西へ落ちていく夕日を、浄土への門と見る。春分・秋分は、その門がいちばん大きく開く日でした。
第3話 · 誰が、いつ始めた
ところが——この「彼岸会(ひがんえ)」、つまり春秋のお彼岸の法要は、探しても日本だけにしかありません。悟りの対岸という発想も、西に沈む日を拝む作法も、もとは大陸渡来。なのに、それを春分・秋分の年中行事にまとめたのは、インドでも中国でもなく、日本でした。
では、誰がいつ始めたのか。よく引かれるのは『日本後紀』の、大同元年(806年)の記事です。政争のなかで皇太子を廃され、非業の死をとげた早良親王(さわらしんのう)——のちに崇道天皇(すどうてんのう)と追称された人——の霊を鎮めるため、諸国の僧に、春と秋のそれぞれ七日間、金剛般若経を読ませた、と。この「春秋・七日間の読経」が、彼岸会のいちばん古い記録とされます。
ただし、この記事に「彼岸」の語は出てきません。ほかに聖徳太子が始めたとする伝承もあって、起源は諸説あり、定まらない、というのが正直なところです。
第4話 · こちらの岸から
なぜ、日本でだけ根づいたのか。
一つの見方は、こうです。日本には古くから、自然のなかに聖なるものを見て、沈む日を拝み、祖先の霊を敬う心があった。そこへ「西に沈む日の向こうに浄土がある」という教えが重なる。二つが噛み合い、春分・秋分を中日(ちゅうにち)とし、その前後三日ずつを合わせた七日間の行事が、日本の土に根を張っていったのです。
こうして「彼岸」は、悟りへ渡る対岸であると同時に、先に旅立った人たちのいる岸にもなりました。向こう岸を思うことが、亡き人を思うことと、静かに重なっていったのです。春と秋のお墓参りの習わしは、ここから育ちました。
「暑さ寒さも彼岸まで」。そう口にするとき、その「彼岸」の奥には、川の向こうの遠い岸と、真西へ沈む日と、そこへ渡っていった人たちの気配が、ほんの少しだけ、たたんで仕舞われています。