「三十六計逃げるに如かず」。あれこれ策をめぐらせても、いよいよ追い詰められたら、逃げるのが一番——そんな、負け惜しみのようでいて、妙に実感のある一語です。
でもこの言葉、もとは落ち着いた処世訓ではありませんでした。乱世の宮廷で、七十を過ぎた反逆者が、うろたえて逃げ支度を始めた相手に投げつけた、皮肉だったんです。しかも「三十六」は、兵法書に並んだ計略の数ではありません。ある一人の名将についた、二つ名のようなものでした。
第1話 · 粛清の刃
舞台は西暦498年、南朝斉。皇帝の明帝は、いとこや甥にあたる皇族を次々に手にかけ、建国を支えた功臣たちまで疑いはじめた、猜疑心のかたまりのような人でした。
その刃が、東方の会稽(かいけい)にいた老将にも向いてきます。かつて斉の旗揚げを助けた王敬則(おうけいそく)、齢七十あまり。座して殺されるくらいならと、彼は兵を挙げました。集まった手勢は十余万。都の建康(けんこう)をめざして、西へ攻めのぼります。
第2話 · 火の手を見て
老いた反逆者の勢いは凄まじく、都の朝廷は震え上がりました。
そのとき皇太子——のちに廃されて東昏侯(とうこんこう)と呼ばれる、明帝の子——は、東宮にいました。都はずれに火の手が上がるのを見て、家臣が「敬則が来た」と早合点する。皇太子はあわてて荷物をまとめ、逃げ出す支度を始めてしまいます。
それを伝え聞いた王敬則が、鼻で笑って言い放ちました。
檀公(だんこう)の三十六策、走(に)ぐるは是(こ)れ上計(じょうけい)なり。汝(なんじ)父子は、唯(た)だ急ぎ走ぐべきのみ——『南斉書』王敬則伝
檀公の三十六の計略、その最上の一手は、逃げること。帝とその子ときたら、ただもう急いで逃げるしかあるまい——。攻めている当人が、逃げ腰の敵を「せいぜい上手にお逃げなさい」とあざ笑った。この一言が、「三十六計逃げるに如かず」の直接の出どころです。
第3話 · 砂を米と数えた男
では、引き合いに出された「檀公」とは誰か。六十年あまりさかのぼった、前の王朝・宋の名将、檀道済(だんどうせい)です。
431年、檀道済は北の北魏へ攻め込みますが、遠征の途中で兵糧が尽きてしまう。窮地を敵に嗅ぎつけられたそのとき、彼は夜どおし、兵に升で穀物を量る声を上げさせました。升に盛られていたのは、実は砂。その上に、わずかな米だけをかぶせておく。兵糧はまだたっぷりある、と見せかけたのです。この鮮やかな囮を、後世は唱籌量沙(しょうちゅうりょうさ)と呼びました。北魏はうかつに追えず、檀道済は全軍を無傷で連れ帰りました。逃げ方の見事さで、その名は語り草になります。
けれど名将は、あまりに恐れられすぎました。436年、宋の朝廷は彼を捕らえ、処刑します。檀道済は頭巾を地に叩きつけて叫んだと言います。「自分の万里の長城を、自分で壊す気か」と。撤退の達人も、主君の疑いからだけは逃げられませんでした。
第4話 · 三十六番目の計
皮肉は、そのまま王敬則に返ってきます。十余万の大軍は、わずか数日で崩れました。逃げ腰をあざ笑った本人が、逃げ場を失って討たれたのです。齢七十あまりでした。
台詞のほうは、生き延びました。「檀公三十六策、走は上計」は、長い年月をかけて磨り減り、日本では三十六計逃げるに如かずの形で定着します。そしてずっと後、明から清のころ、兵法の駆け引きを三十六並べた本が編まれ、この有名な一句からそっくり書名を借りました。『三十六計』——その第三十四が苦肉の計、締めくくりの第三十六が「走(に)ぐるを上と為す」。ただし、檀道済がこの本を書いたわけではありません。名将の武名にちなんで、書名だけがあとから付いたのです。
追い詰められたら、逃げていい。ただしその「逃げ」の手本は、算を乱して逃げ散ることではなく、飢えた軍を一人残らず生かして帰した、あの静かな撤退のほうでした。