「左遷」という言葉、聞くだけで少し胃が重くなりませんか。本社から支社へ、花形の部署から資料室へ。辞令の紙に方角なんて書いていないのに、私たちはそれを「左へ遷(うつ)される」と呼びます。
なぜ、左なのか。答えは二千年前の中国の朝廷で、誰がどちら側に立つかという席次にあります。
しかも、ややこしいことが一つ。日本では左大臣のほうが右大臣より上なんです。上下が逆の国に、この二文字だけが向きを変えずに渡ってきました。
第1話 · 右に出る者が、いない
漢の朝廷では、右が上でした。
前漢の文帝の代、丞相の陳平(ちんぺい)が自分から一歩下がります。呂氏を討った功では周勃(しゅうぼつ)にかなわない、右丞相の座を譲りたい、と。文帝はそのとおりにしました。周勃が右丞相で位次第一、陳平が左丞相で位次第二(『史記』陳丞相世家)。同じ丞相でも、右のほうが一段上の席だったわけです。
つまり陳平は、自分から左へ動いたことになる。望んで受けた左遷です。
いま使う「その右に出る者がいない」も、この並びからきています。『史記』に「漢廷の臣、能く其の右に出づる者なし」。有力な一族は「豪右」。右は、上。
第2話 · 陛下も、わかっている
そこへ、あの二文字が出てきます。
高祖・劉邦の晩年。幼い趙王のゆくすえが心配で、肝の据わった後見役を付けたい。白羽の矢が立ったのが御史大夫の周昌(しゅうしょう)。中央の高官から、地方の王の相へ。
呼ばれた周昌は泣きます。ずっとお供してきたのに、なぜ途中で諸侯のところへ捨て置くのか、と。高祖の返事がこれです。
吾、極めて其の左遷なるを知る。然れども吾ひそかに趙王を憂う——吾極知其左遷、然吾私憂趙王(『史記』張丞相列伝)
これが左遷なのは、こちらも百も承知だ。皇帝みずから、辞令が格下げであることを認めている。
唐の顏師古(がんしこ)は『漢書』の注で種明かしをしました。朝廷の列は右を尊ぶ、だから位を下げるのを左遷といい、諸侯に仕えるのを「左官」というのだ、と。
第3話 · 馬車では、左を空けて待つ
ところが、話はまっすぐ進みません。
同じ『史記』で、魏の信陵君は賢者を迎えにいくとき、馬車の左側を空けて待ちました。「虚左」——左を空けておく、が最上級のもてなし。車の上では、左が上席だったんです。
『老子』にもこうあります。
君子、居れば則ち左を貴び、兵を用うれば則ち右を貴ぶ——君子居則貴左、用兵則貴右(『老子』第三十一章)
ふだんは左、戦のときは右。左右の上下は、場面でも時代でも入れ替わりました。秦漢は右、唐宋は左(尚書省の左僕射が右僕射の上)、元でまた右、明でまた左、という具合。
それでも唐の韓愈(かんゆ)は、仏骨を宮中に迎えるのを諫めて潮州へ飛ばされたとき、その詩を「左遷せられて藍関に至り……」と題しています。左が上の時代でも、降格はやはり左遷。制度が動いても、言葉だけが漢のまま残りました。
第4話 · 左大臣が、右大臣を
日本にも、その向きのまま渡ってきます。
律令の太政官は唐の尚書省にならって大臣を左右に分けました。序列は左大臣が上で、右大臣が下。左が上位の国のできあがりです。
昌泰四年(901 年)正月。左大臣・藤原時平の側が動き、右大臣・菅原道真は大宰権帥(だざいのごんのそち)に落とされて九州へ下ります。上位の左に立つ側から、下位の右に立つ人が突き落とされた。それを私たちは、いまも「左遷」と呼んでいます。
言葉じたいの到着はもっと早い。『続日本紀』の天平宝字四年(760 年)に、ある官人を多褹嶋(たねのしま)=いまの種子島・屋久島あたりの役職へ「左遷す」とあります。制度の左右がひっくり返っても、言葉は輸入されたときの向きのまま動きませんでした。
辞令の紙に、方角は書いてありません。それでも「左」の一字は、二千年前の朝廷で誰がどちらに立つかを決めた、あの取り決めを指したままです。座席順はとっくに消えたのに、落胆のほうだけが、いまも現役で働いている。