「青春」。若い時期のことです。青春時代、青春を捧げる、青春映画。使い方に迷う人はいません。
迷わないぶん、誰も立ち止まらない部分があります。なぜ、青なのか。若さは青いのか。青二才の青と同じだろうか。——どちらとも、少し違います。この青はもともと、若さの色ではありません。
第1話 · 季節には、色が割り当てられていた
古代中国に五行説という考え方があります。世界のあらゆるものを木・火・土・金・水の五つに振り分けて整理する枠組みで、方角も、季節も、色も、この五つに組み込まれました。
春は木、方角は東、色は青。夏は火、南、朱。秋は金、西、白。冬は水、北、玄——黒のことです。
つまり春の色は、はじめから青と決まっていた。若さとは関係がありません。木が芽吹く方角の色として、青が春に割り当てられている。
五つあるのに季節の色が四つで足りるのは、土だけが季節を持たないからです。土は中央に置かれ、あるいは各季節の終わりに割り振られる。残った四つが、春夏秋冬にきれいに収まります。
そしてこの配当を季節の名にすると、四つの言葉が揃います。青春・朱夏・白秋・玄冬。
第2話 · 最初は、ただの春だった
古い用例としてよく引かれるのが『楚辞』の大招という篇です。
青春 謝を受け、白日 昭(あきら)かなり——青春受謝、白日昭只(『楚辞』大招)
冬が去るのを受けて青い春が訪れ、日ざしが明るく照りわたる。季節がめぐってきた、という情景です。ここでの青春に、若さの意味はありません。文字どおり春という季節のことを言っています。なお、この「白日」は五行の白ではなく、輝く日ざしのことです。
もっとも、これはこれで美しい呼び方です。春に「青」という色名がついているだけで、季節が一枚の絵になる。中国の詩人たちは、この四色をずっと使い続けました。
第3話 · 若さの意味が乗ってくる
春はやがて、人の一生にたとえられるようになります。芽吹く季節と、若い時期。重ねやすい二つです。中国では、唐の詩に若い時分の含みで「青春」を使った例が見えます。
日本でも、移し替え自体はずいぶん古い。奈良時代の漢詩集『懐風藻』に「縦(ほしいまま)に賞す青春の日、相期す白髪の年」——若い日を存分に楽しみ、白髪になる年を約束しよう、という対句があります。八世紀には、もう来ている。
ただしそれは、漢詩のなかの話です。「青春」がふつうの日本語として広く通じるのは近代に入ってから。明治三十八年から翌年にかけて、小栗風葉(おぐりふうよう)の長編小説『青春』が読売新聞に連載されて評判になります。学生たちの恋と迷いを描いたこの小説が、語を世に広める役を果たしたとも言われます。
重なったものが、もう一つあります。日本語の「青」には、未熟という意味が別にある。青二才、まだ青い、尻が青い。五行の青とは出どころの違う用法ですが、若い=青いという感覚がすでに通っていたぶん、この二字は座りがよかったはずです。
季節の名だった二字が、人生のある時期の名になる。移し替え自体は千三百年近く前からあって、みんなの言葉になるまでには、そこからさらに千年以上かかったことになります。
第4話 · 残りの三色は、どこへ行ったか
ここで気になるのは、残りの三つです。朱夏、白秋、玄冬。人生を四つの季節に割り当てるなら、若い時代のあとには当然この三つが続くはずでした。
ところが日常語になったのは青春だけです。ふだんこの三つを口にする人は、まずいません。かろうじて名前として残ったのが、詩人の北原白秋でしょう。五行の秋の色から採ったとよく言われますが、本人はのちに、中学の仲間うちで全員「白」を名乗ると決め、下の字は籤引き(くじびき)で「秋」に当たっただけだと回想しています。四色を背負っているように見えて、実はくじだった。
四つで一組の言葉のうち、最初の一つだけが日本語に住みついた。あとの三つは辞書の中で、順番を待ったまま止まっています。
若さの色だと思っていた青は、東から来る春の色でした。そして私たちは、四つの色のうち春の一つだけを日常の言葉にして、残りの三つについては何も言わずに過ごしています。