「青天の霹靂」という言葉、いま使うのはたいてい悪い知らせのほうです。突然の解雇通告、寝耳に水の人事、急な訃報——晴れわたった空に、いきなり落ちてくる雷。使う人はいつも雷を受ける側で、顔色を失っています。

ところが、もとの詩をひらくと、そこで雷を落としているのは天ではありません。病の床から起き上がった、ひとりの老人なんです。

第1話 · 立秋から、七十日

舞台は南宋の山陰(さんいん)——いまの浙江省紹興。1209 年、嘉定二年の秋です。

主人公は陸游(りくゆう)、号は放翁(ほうおう)。金に奪われた北の地を取り返せと生涯言い続けた、南宋きっての詩人です。この年、数えで八十五になっていました。

その秋、立秋の日に胸を病んで倒れます。自作の詩の題に、経過がそのまま書きつけてある。「立秋に膈上(かくじょう)の疾を得、寒露に近くして乃(すなわ)ち小(すこ)しく愈(い)ゆ」——秋のはじめに寝つき、秋の終わりでようやく少し持ち直した、と。

詩集『剣南詩稿』の巻八十四には、この秋の詩がずらりと並びます。粥の味、米を舂(つ)く音、薬の匂い。のちには、こんな題の一首まで置かれる。「一病七十日」——七十日寝込み、周りはもう助からないと思っていた。

第2話 · 鶏が鳴く前に

そんな秋の、九月四日の夜。

まだ鶏も鳴かない暗いうちに、放翁はむっくり起き上がりました。そして、筆をとった。詩の題は、そっけないほどそのままです。「四日の夜、鶏未(いま)だ鳴かざるに起きて作る」。

放翁病過秋,忽起作醉墨。正如久蟄龍,青天飛霹靂 (放翁 病みて秋を過ぐ、忽ち起きて酔墨を作す。正に久蟄(きゅうちつ)の竜の如く、青天に霹靂を飛ばす

酔墨とは、酔いに任せて書きなぐる書。陸游は草書を好み、酔って書き散らすさまを何度も詩にした人でした。

つまり、ここでの青天の霹靂は災難ではありません。長いこと地の底にひそんでいた竜が、青空へ躍り出て雷を落とす——そのくらい凄まじい、自分の筆の勢いのこと。ようするに、自慢です。

第3話 · この翁が死んだら

詩は、あと四句続きます。

雖云墮怪奇,要勝常憫默。一朝此翁死,千金求不得 (怪奇に堕つと云うと雖(いえど)も、要は常に憫黙(びんもく)たるに勝る。一朝 此の翁死せば、千金もて求むるも得ず)

憫黙は、憂えて黙り込むこと。奇をてらっていると笑われようが、塞ぎ込んで寝ているよりずっといい。そのうえ、こんな字はもう二度と書けないぞ——負けん気と冗談が、半分ずつです。

じつは陸游、ずっと前にも同じ句を使っています。ある禅僧を讃えた詩の結びで、「白い払子(ほっす)を一本この人に渡してみろ、青天に霹靂の飛ぶのが見えるはずだ」。彼にとってこの句は、突然あらわれる圧倒的な力への讃辞でした。

そして嘉定二年の暮れ——年が明けて 1210 年 1 月、放翁は世を去ります。

第4話 · 海を渡って、明治の新聞へ

もっとも、この句を作ったのは陸游が最初ではありません。百五十年ほど前の北宋の詩人王令(おうれい)も、友に寄せた詩に「万古 青天に霹靂飛ぶ」と書きつけています。やはり、災いを指す句ではないんです。

それが「青天の霹靂といえば陸游」と決まったのは、清の考証書『通俗編』のおかげです。巻一「天文」に「青天飛霹靂」の項を立て、放翁の四句をそっくり引いた。以後、この詩が出典として据わります。

日本語に入るのはずっと遅く、明治になってから。『日本国語大辞典』が挙げる最も古い用例は、1897 年 11 月 20 日の新聞『日本』——ドイツ艦隊の膠州湾(こうしゅうわん)占領を伝える急報を、「青天の霹靂たる感なきにあらざる」と評した一文です。

褒め言葉は、ここではもう完全に凶報です。

病の床の老人が、暗いうちに起き出して、竜のつもりで筆を振り下ろす。その一撃の音だけが、八百年たったいまも、言葉のなかで鳴り続けている——わけです。