「せっかくの休みが、雨だった」。「せっかくだから、寄っていこう」。一日に何度も口にする言葉です。

漢字で書くと折角。角を、折る。

何の角でしょうか。たどっていくと、角は二つ出てきます。最初の一つは、鹿の角。しかも、折られたのは鹿ではありません。

第1話 · 五鹿という、姓

前漢の元帝の時代。五鹿充宗(ごろくじゅうそう)という人が、たいへんな羽振りでした。少府(しょうふ)という高官を務め、帝のお気に入り。専門は『易』、なかでも梁丘(りょうきゅう)家の学説です。

その元帝が、諸家の説の異同を確かめたいと言い出しました。五鹿充宗と、ほかの易学者たちで論じさせよ、と。

ところが、誰も出てきません。五鹿充宗は地位を笠に着たうえに、弁が立つ。太刀打ちできる者がおらず、儒者たちはみな病気だと言って、その場を避けました。

そこへ推薦されたのが朱雲(しゅうん)です。呼ばれて堂に上がり、裾をからげ、顔を上げて問いを立てた。その声が左右の者を震わせた、と『漢書』は書きます。

論難が始まると、朱雲は五鹿充宗を続けざまに突き崩しました。見ていた儒者たちは、こう言い合います。

五鹿嶽嶽(がくがく)たり、朱雲その角を折る(『漢書』朱雲伝)

この一件で、朱雲は博士になりました。

第2話 · 角は、どこから出てきたか

問題は、角です。

唐の顔師古(がんしこ)が、ここに注をつけています。嶽嶽とは、長い角のかたち。

注が言うのはそれだけです。けれど、それで一句が解けます。相手の姓は「五鹿」。鹿には、角がある。だから、そびえ立つ角を折った、と言った。姓に引っかけた洒落です。『日本国語大辞典』も、この一句を、鹿の角を折ったと「しゃれた」ものと説明しています。

念のために書いておくと、何かを実際に折ったわけではありません。議論で言い負かした、それだけです。

ここまでが「折角」の一つめの顔。高慢の鼻をへし折る、という意味です。この場面には、苦労の気配も、わざわざの気配も、まだありません。

第3話 · 折ったのは、本人ではない

もう一つの顔があります。こちらは後漢。

郭泰(かくたい)、字は林宗(りんそう)。当代きっての名士で、彼がどう評するかで人の評判が決まったほどの人です。『後漢書』では、編者の范曄(はんよう)が父の名の「泰」を避けたため、郭太と書かれます。

その林宗が、陳と梁のあいだを行く途中で雨に降られました。

かつて陳梁の間を行きて雨に遇い、巾(きん)の一角墊(た)る。時の人すなわち故(ことさ)らに巾の一角を折り、以て「林宗巾」と為す(『後漢書』郭太伝)

墊は、垂れる・へこむ。かぶっていた頭巾の角のひとつが、雨でくたっと垂れた。それだけの話です。

面白いのはその先で、それを見た人たちが、わざわざ自分の頭巾の角を折りました。原文ははっきり「故(ことさ)らに折り」と書きます。有名人のよれた帽子を、意図して真似る。二世紀の流行です。

そして『日本国語大辞典』は、いまの「せっかく」をこちらにつないでいます。副詞の「苦心して。骨を折って。つとめて。わざわざ」——その典拠として挙がるのは、朱雲ではなく、この林宗巾のほうです。もっとも、なぜ林宗巾なのか、その根拠を辞典は示していません。辞書によって割り振りも違い、『デジタル大辞泉』は朱雲の故事のほうを、名詞の「骨を折ること」の出どころに置いています。

第4話 · 中国語に、その意味はない

ここで、身も蓋もない事実を一つ。

中国語の「折角」に、「苦労して」も「わざわざ」も「惜しい」も、古今を通じて一度も存在しません。

漢語の辞書が挙げるのは三つだけ。弁舌が巧みなことのたとえ。論争で言い負かす(負かされる)こと。そして、角を折ること。現代中国語で「折角」といえば、まず本のページの角を折ることです。図書館の注意書きにある、あれ。

日本語の「せっかく」にあたる一語も、中国語にはありません。場面ごとに、やっとのことで、わざわざ、めったにない、と訳し分けます。

では、日本ではどうだったか。

同じ『日本国語大辞典』がいちばん古く掲げるのは、仁和二年(886 年)の『日本三代実録』。天皇の前で二人が経義を論じ、やり合ったけれど折角無し——決着がつかなかった、と記されています。漢書とまったく同じ、言い負かす、という意味です。

苦労の側へ寄ってくるのは、そのあとです。鎌倉時代の『保元物語』には「折角の合戦」が二十余度。死力を尽くした合戦、骨を折った戦い、という名詞です。

副詞として辞典の例に顔を出すのは、三代実録から数えて六百年以上あとの十六世紀。手紙に「折角養性仕候」、つとめて養生しております。ところが元禄の井原西鶴になると、もう今の顔です。「せっかく錆落としてから」——骨を折ったのに、という、あの徒労。

ちなみに、この十六世紀の「つとめて」のほうは、いまでは手紙の結びくらいにしか残っていません。「時節柄、折角ご自愛ください」の、あれです。『デジタル大辞泉』も「やや古い言い方」と断っていて、近代の小説を探しても、もうほとんど出てきません。

鹿の角は比喩、頭巾の角は流行。そして、いちばん大きく折れ曲がったのは、意味のほうでした。