「千載一遇のチャンス」。めったに巡ってこない好機のことです。
載(さい)は、年。千年に一度の、遇——出会い。
ではその千年に一度、何と何が出会うのでしょうか。チャンスと自分、ではありません。出典とされる文が言っているのは、人と、人のことです。
第1話 · 千年に一度、出会うもの
書いたのは東晋の袁宏(えんこう)。四世紀の文人です。
暇を見ては『三国志』を読み、そこに出てくる君主と臣下の組み合わせを考えつづけた人です。そして魏から九人、蜀から四人、呉から七人、二十人の名臣を選び、一人ずつに賛(さん)を捧げる文章を書きます。その序文が、これでした。
まず袁宏は、士にとって何がいちばん難しいかを問いました。道を世に広めることが難しいのではない。時に遭うのが難しい。いや、時に遭うのはまだしも、君に遇うのが難しい。
そして、こう続けます。
夫れ万歳一期は、有生の通塗(つうと)なり。千載一遇は、賢智の嘉会(かかい)なり(『文選』巻四十七・三国名臣序賛)
万年に一度だろうと、めぐり合わせ自体は、生きるものならみな一度は通る道にすぎない。けれども千年に一度の出会いこそ、賢者や智者にとってのめでたいめぐり合わせなのだ。
そして文章の最後、二十人全員をまとめる総賛で、袁宏はもう一度この四字を置きます。詵詵(しんしん)たる衆賢、千載一遇。ずらりと並んだこの賢者たちは、千年に一度の出会いを得たのだ、と。
序が問うていたのは、士が君に遇えるかどうかでした。つまり千載一遇とは、すぐれた臣下と、それを用いる君主とがめぐり会うこと。好機ではなく、遇合の名前でした。
ちなみに、この四字は袁宏の発明ではありません。唐の注釈者・李善は、後漢の『東観漢記』から同じ四字を引いています。ただ、いまの辞書が出典に挙げるのは、この袁宏の文章です。
第2話 · 載が、年になるまで
次は、字のほうです。
なぜ「載」が「年」なのか。『爾雅(じが)』という古い辞書の釈天(しゃくてん)に、答えがあります。
載は、歳なり。夏には歳と曰(い)い、商には祀と曰い、周には年と曰い、唐虞(とうぐ)には載と曰う(『爾雅』釈天)
王朝ごとに、年の呼び名が違った。堯・舜の時代は「載」と言ったのだ、と。たしかに『書経』には「朕(われ)位に在ること七十載」とあります。
では、なぜ載なのか。注をつけた郭璞(かくはく)は「物の終わりて更に始まるを取る」と、一言で済ませています。ものごとが終わって、また始まる。ひと巡りして始めに戻ることを、載と呼んだというわけです。ついでに「年」のほうは、『説文解字』が「穀(こく)の熟するなり」と言います。実りが一年に一度だから、実りの字が年になりました。
載も年も、はじめから年を意味していたわけではありません。千載とは、千回のひと巡りのことです。
第3話 · 書いた人も、見出されていた
さて、ここからがいちばん面白いところです。
「千年に一度の出会い」を書いた袁宏は、若いころ、たいへん貧しい人でした。父を早くに亡くし、人に雇われて年貢の米を運ぶ船で働いていた、と『世説新語』は書きます。
ある夜のこと。将軍の謝尚(しゃしょう)が、船で川を下っていました。清らかな風、明るい月。すると荷を積んだ船のあたりから、詩を吟ずる声が聞こえてくる。
なかなかの情致で、しかも聞いたことのない詩でした。感心した謝尚が人をやって尋ねさせると、声の主は雇われの若者で、詠んでいたのは自分で作った詩だという。
謝尚はその若者を招き、二人は夜明けまで語り明かしました。これより袁宏の名声は日ごとに高まった、と『晋書』は書きます。
月夜の川で、通りすがりの将軍に見出された運搬船の青年。その人が後年、賢者と名君が出会うことがどれほど稀かという文章を書いたわけです。
第4話 · 相手が、いなくなった
日本にこの言葉が入ったのは早く、遅くとも奈良時代には使われていました。
『日本国語大辞典』が最も古く掲げるのは、八世紀なかばの『家伝』。「朕と必ず合う、これ誠に千載の一遇なり」——語っているのは「朕」、つまり君主のほうです。臣下と出会えたことを、君主の側が言っている。袁宏の意味そのままです。
ところが平安の『本朝文粋』になると、様子が変わります。国司の任官を願い出る申文(もうしぶみ)に「幸いに千歳一遇の栄を期す」——載が歳に替わっていますが、どちらも年のことです。出会う相手が、もういません。わが身に巡ってきた好機のことです。
明治の幸田露伴になると「千歳一遇の好機会に逢ひながら」。いまの「千載一遇のチャンス」と同じ形です。
千年に一度だったのは、チャンスではなく、人と人の出会いのほうです。