「切磋琢磨」という言葉、いま使うのは「仲間どうしで競い合い、高め合う」という場面でしょうか。よきライバルと励まし合って伸びていく——そんな前向きなイメージの一語です。

でも語源をたどると、これは『詩経』にある、職人が骨や玉を削り磨く手仕事の描写で、もとは「一人で、自分を磨く」話だったんです。

第1話 · 詩経の一句、四つの手仕事

おおもとは、中国最古の詩集『詩経』。そのなかの衛風「淇奥(きいく)」という詩は、淇水のほとりに青々と茂る竹の、すらりと節(ふし)の通った美しさを歌い起こします。そして、その竹のような気品をそなえた一人の君子を讃えていく。古くは、衛の名君・武公が、年老いてなお学びを怠らず、徳を磨きつづけたその人柄を讃えた詩だと伝えられてきました。

その第一章に、こうあります——「如切如磋、如琢如磨」。四つの字は、それぞれ別の素材を加工する、職人の手わざを指します(古い注釈書・毛伝による区別です)。

切って、研いで、打って、磨く。どれも、かたい素材を、一度ではどうにもならない手間をかけて、少しずつ器に仕上げていく工程です。詩は、この根気のいる手わざを、君子が学問と徳を、日々こつこつ高めていく姿に重ねました。

第2話 · 子貢、ちょっと得意になる

時代は下って春秋の末、孔子の門下。弟子のなかでも弁が立ち、商才にも長けた子貢(しこう)——のちに孔門十哲のひとりに数えられる秀才です——が、あるとき師に、こう問いました。

「貧しくても人に諂(へつら)わず、富んでいても驕(おご)り高ぶらない。そういう人は、いかがでしょうか」

なかなかの境地でしょう、という自負がにじむ問いです。貧しさも豊かさも知り、身ひとつで財をなした子貢だけに、これは半ば、自分自身への確かめでもあったのかもしれません。

第3話 · 孔子の、もう一段上

ところが孔子の答えは、子貢の予想の、もう一段上にありました。

「悪くない。だが、貧しくて道を楽しみ、富んで礼を好む者には、まだ及ばないね」

諂わない・驕らないは、欲や不満を「しない」と抑えてこらえる段階。けれど、その上には、「楽しむ・好む」という段階がある。歯を食いしばって己を保つのではなく、貧しくても心は楽しく、豊かでも自然に礼を好む——そんな、力みの抜けた高みが、まだ先にあるのだ、と。

第4話 · 詩を引いて、認められる

ここで子貢は、はっとして、あの『詩経』の一句を引きます。

するが如くするが如く、琢するが如く磨するが如しとは、其れ斯(こ)れを謂うか

切り、研ぎ、打ち、磨く——というのは、まさにこのことでしょうか。いまの段階で満足せず、さらにその先へと、自分を仕上げ続けること。子貢は、師の言葉を、詩の一句でぴたりと言い当ててみせたのです。

孔子は、たいそう喜びました。「賜(し)よ(賜は子貢の名)。これでようやく、お前と詩を語り合える。ひとつを告げれば、その先まで悟る者だ」。

もとは、骨や玉を、たった一人で削りつづける、地道な手仕事でした。それが、師と弟子が言葉を磨き合う対話になり、いまでは、仲間とともに競い高め合う言葉になっている。「切磋琢磨」の四文字には、削って、研いで、打って、磨く——あの手の動きが、いまも静かに残っています。