締め切りに追われて「四苦八苦した」と言うとき、私たちは苦労の量を言っています。四つと八つ、合わせて十二くらいの苦しみ——なんとなく、そんな足し算のイメージで。

ところが、この四字は足し算になっていません。四は、八の中に入っているのです。

第1話 · はじめの四つ

四苦は、生・老・病・死。生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと。

日本語で読むと、最初の「生」だけが浮きます。老いも病も死も、たしかにつらい。でも生きることが、なぜ並ぶのか。

ここでいう「生」は、生きることではなく生まれることを指します。母の胎を出て、この世に投げ出される、あの一回のこと。あとの三つが自分の身に起きるように、生まれることもまた、こちらの都合とは無関係に起きた。順番の先頭に置かれているのは、そういう理由です。

生まれ、老い、病み、死ぬ。並べてみると、四つはどれも頼んでいないのに来るものばかりです。

第2話 · あとの四つ

八苦は、この四つに次の四つを足したものです。

別れ、出会い、渇き。はじめの三つは、こちらの心が誰かや何かに向かうところから起きます。

『大般涅槃経』の聖行品には、こう並びます(末尾の「五盛陰苦」は、五蘊盛苦の別の書き方です)。

八相を苦と名づく。いわく生苦・老苦・病苦・死苦・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五盛陰苦——八相名苦、所謂生苦老苦病苦死苦愛別離苦怨憎會苦求不得苦五盛陰苦(『大般涅槃経』聖行品)

つまり八苦とは、四苦を含んだ全体。「四苦八苦」は四つ、そして八つと数え直しているだけで、十二にはなりません。

最後の五蘊盛苦だけ、少し毛色が違います。五蘊とは、体と感覚と印象と意志と意識——私を組み立てている五つの部品のこと。その部品が働いていること自体が苦だ、というわけです。ほかの七つが起きる、その場所そのものを指しています。

第3話 · 訳語が、少し強すぎる

そもそも「苦」という訳語が、少し強すぎます。

原語はドゥッカ。意味の芯は「痛い」ではなく、「思うようにならない」ほうにあります。うまくかみ合わない、しっくりこない、こちらの願いどおりに動いてくれない。よく紹介されるのは、車軸と穴の具合が悪くて、ごとごとときしみながら回る車輪のたとえです。これは語源としては確かでなく、「立ち方が悪い」に由来するという別の説もあります。ただ、感じはよく伝わる。

ちなみに、この語には対になる言葉があります。スカ——さきほどの見立てでいえば、具合よく回っているほう。私たちが「楽」と訳してきた語です。

痛みなら、消えれば終わりです。かみ合わなさは、そうはいかない。愛する人といつか別れるのも、欲しいものが手に入らないのも、痛いというよりままならない。仏教が数えあげたのは、この「ままならなさ」の種類でした。

だから四苦八苦は、苦しみの量ではなく、目録なのです。

第4話 · 百八の噂

日本では、こんな説明も広まりました。四九三十六、八九七十二。四苦の四と八苦の八に、それぞれ九を掛けて足すと百八——除夜の鐘と同じ数になる、という話です。

よくできています。ただ、経典にそんな計算は出てきません。数字の一致を後から見つけた語呂合わせです。煩悩を百八と数えること自体は経典にありますが、四苦八苦から百八を導く道すじのほうが、後から引かれている。それでも語り継がれるのは、私たちが「四苦八苦=たくさんの苦労」と読んでしまっているからでしょう。多いほうが、話として気持ちいい。

そして日本語では、この四字に「する」がつきました。四苦八苦する。暮らしの言葉として使われはじめたのは案外古く、近松門左衛門の『曾根崎心中』(1703 年)の道行には、すでに「断末魔の四く八く」と出てきます。数えあげの表だったものが、動詞になって、年度末や引っ越しや確定申告のかたわらに置かれるようになった。

もっとも、遠くはありません。思いどおりにならないものを前にして、私たちはいまも同じ言葉を口にしている。数が八つで済んでいるかどうかは、また別の話ですが。