「退屈(たいくつ)」という言葉、いま使うのは「することがなくて、ヒマでつまらない」。「退屈な授業」「退屈しのぎ」——時間をもてあます、あの気だるさを指す一語です。
でも語源をたどると、これはもともと仏教の言葉で、「ヒマ」どころか正反対の、高すぎる理想を前にした、心の挫折を指していたんです。
第1話 · 退いて、屈する
「退」は、しりぞく。「屈」は、かがむ、くじける。「退屈」は字のとおり、退いてくじけること。
仏教で、これは修行の言葉でした。悟りという目標があまりに高く、遠く、果てしないと知って、心がしりぞき、くじけてしまう。気力が萎えて、前へ進めなくなる。それが、もとの「退屈」です。
第2話 · 三つの退屈
唯識(ゆいしき)という仏教の学派の根本書『成唯識論』は、悟りをめざす者が、その出発点でつまずく三つのくじけ——「三退屈(さんたいくつ)」を説きます。
- 悟りの世界があまりに広く深いと聞いて、ひるむ心
- 積むべき修行があまりに厳しいと聞いて、尻込みする心
- 仏の境地はとても証(さと)りがたいと聞いて、絶望する心
高い理想を前に、足がすくむ。そして、それを乗り越えるための「三練磨(さんれんま)」という励まし方も、ちゃんとセットで説かれていました。
第3話 · 『往生要集』の退屈
日本でも、はじめは仏教語のまま入ってきます。平安中期、源信(げんしん)の名高い『往生要集』には、こうあります。
菩提(ぼだい)の大利を得んがために、退屈を生ずべからず——『往生要集』
悟りという大きな利益を得るために、くじけてはならない——。ここでの「退屈」は、ヒマとは縁もゆかりもない、修行者の張りつめた心の話です。
第4話 · 「ヒマ」へすべり落ちる
意味がすべり出すのは、中世。
「くじける」「気力が尽きる」という芯から、「疲れて嫌になる」「うんざりする」へ。南北朝期の『太平記』には、戦い続けて「退屈」する——飽き疲れる、という使い方が出てきます。
そこからもう一歩。「気力が湧かない」が、「することがなくて間がもたない」へ。「倦(う)む」が「ヒマ」へ。近世になると、いまの「退屈」——ヒマでつまらない、が中心の意味になりました。
高すぎる理想に心が折れること、から、何もすることがなくて持て余すこと、へ。考えてみれば、ずいぶん遠くまで来たものです。「退屈だなあ」とこぼすとき、はるか昔、悟りを前にくじけかけた誰かの心が、その言葉の底に、薄く沈んでいる——のかもしれません。